見上げた空のパラドックス
84 ―side Fumi―
壁づたいに歩む。
すぐに息を切らす自分が、最初はなかなか信じられなかった。
自力で立つことは最初からできたのだから、歩くくらいどうってことないと思っていたのに、三日経っても壁づたいでなければ歩ける自信がない。理由はひとえに食事が足りないからで、その原因は食事に関する体力がまったく足りていないことによる。咀嚼も消化も重労働だ。よって回復は遅々としか進まない。
「はあ……」
要するにけっこう気が滅入っている。
あと二週間と少しで、どこまでいけるか。せめて自力で50メートルは歩きたい。無理な気もするけど頑張るのだ。
四角いコンクリートの地下室からはまだ出られない。夏だから、ここまで弱った人員を抱えるには、この組織にはいま余裕がない。わたしの存在が他の人員に発覚すれば、誠也くんに白刃の矢が立つ。そのくらい理解できない頭ではなかった。寂しいところにひとり、それでも文句は言えない。
(未来がないんだったらどこでも同じだ)
仄かな明かりのとなり、壁に背をもたれて休んでいると、ふいに地下室の扉が開いた。わたしの目にまず映ったのは呆れと寂寥と歓喜で、次に愛しい人の姿。
「どうしたの。誠也くん」
「冰が」
「帰ってくるかあ。やっとだね」
彼は苦笑と共にうなづく。ずいぶん、表情豊かになったものだと思う。昔は話すのも笑うのも苦手で、ちーちゃんに付いて回るだけの無愛想な少年だったのだけれど。彼がよく笑うようになったのは、心が豊かになったと言うよりは、社交性を培ったというだけのことだろう。わたしが居なくなってから、彼は大きく変わった。わたしへの思いだけは変えないままに。
――ちーちゃんは変わらなかった。誰を殺しても、救っても、恋をしても、報われても、何一つ変わらなかった。
変わらず、予言どおりの未来がくる。
「ねえ。これからどうするの。ファリアは」
「あぁ……様子見だな。少なくともお前が回復するまでは続ける。ただ、」
視界のなかで暗色が揺らぐ。
「戦うことになる、かもしれない」
「わたしも出る」
「は?」
「はい、動揺しない動揺しない! もとからそのつもりだったの。前線には行けないけど、力なら使えるし、銃も撃てる。そろそろ、役に立たせてよ。寂しいでしょ」
わたしは特諜育ちだから。騙すか、盗むか、殺すしか能がない。目覚めた以上、働かなければならない、という感覚は芯まで刷り込まれている。いつまでもお荷物ではいられない。なにより、これからのことを知っている身としては、ずっと動かずにいるのも辛かったから。こういう提案をした。
彼はむろん首を振る。
「嫌だ」
「駄目じゃなくて嫌ってところがまたあなたらしいね」
「お前、どこまでわかって言ってる」
「ぜんぶだよ」
張り巡らされた伏線とその向こうが、わたしには見える。ちーちゃんの恋を見届けたわたしには、見える。
ファリアの長ならわかるはずだよ。
近いうちにこの国に何が起きるか。
「どこに行ってもいいけど、ついていかせて。誠也くん。わたしは責任もってあなたの隣にいるから」
壁から手を離し、彼に向き直って淡い目を見つめた。彼の動揺は手に取るようにわかる。頷かせるのは、簡単だ。彼はたいていのわたしの我が儘を聞いてくれる、そういうふうにできているから。
罪悪感は拭えない。死ぬまでずっと。
「……わかった。死ぬなよ」
「あなたが死ぬまではね」
彼の目が据わる。
わたしは笑顔を浮かべて、武骨な壁に再び身を預けた。
「それと、ちーちゃん帰ってくるなら、ちょっと話したい」
「ああ。……もちろん」
「よーし。お迎え行ってらっしゃい、誠也くん」
2018年4月30日
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