見上げた空のパラドックス
83 ―side Chitose―

 動けるようになった。
 点滴で体内に劇薬をぶっ込んでまる半日で、手足くらいは自力で動かせるほどに回復。一日、補助があれば身体を起こせるようになった。二日、補助があれば立って歩けるほど身体が軽くなった。主な副作用は情緒の乱れと言われたものの、いまさらふみのおまじないが功を奏したようで心はまっさらに凪いでいる。

「数日から一週間で薬が効かなくなる。動けるうちにやりたいことはやっておけ」
「……そうだなあ」

 死が近い。
 やりたいことは、正直、もうあらかた終わっていた。
 土台は整い、ほとんどが想定通りに順序だてられ、あとは急なバグが起こらない限りプランは完遂する。僕自身が感情的に求めるものも、もう無いに等しい。圭の笑顔を見た。あとは、君に顔負けできるように、穏やかであり続ければいい。
 僕は絶望しない。
 あとはそれだけで。

「……一度ファリアに顔を出したい」

 とはいえ欲は尽きない。
 話がしたい。灰野やふみと。情報量の少ない言葉を投げ合うだけでも、なにもないよりはいい。この家に来てから、急に誰とも言葉を交わさない時間が増えて、微かな寂寥が無音の心を包んでいる。圭も晶もここでは無口で、僕に体調を問う他にはほぼ言葉を発しなかったから。ある意味これが彼らの素なのだろうが。

「車は出せるが、無理しないな?」
「しない」
「なら、行こう。……伝えてこい」

 死にゆく人間の扱いに慣れている晶の手際は速かった。僕が望みを口に出した数分後には外出の支度を整え、圭に車を任せて、僕はローラー付の椅子で家の最奥に連れていかれた。晶は黙って通信機のボタンを押すと、足早に部屋を出ていく。
 薬棚の立ち並ぶ倉庫じみた室内は寒々として、他の部屋よりも濃い消毒液のにおいがした。においに拡散して染み入る電子音と、通話中を示すランプの光が薄暗がりを溶かした。電子の向こう側から声がする。専用回線なのか、暗号もなく。

『灰野だ』
「……僕だよ」
『冰か。調子は』
「悪いなかでは良いほうかな」
『わかりやすく言え』
「自力じゃ歩けないが、一昨日よりはだいぶましになった」
『そうか、よかった』

 弾んでも沈んでもいない単調な声音がやけに久々に思えて笑った。いちいち、わかりやすく言え、と返されるのもそろそろ最後だろうかと思うともっと笑えた。しかし腹を震わすほどには体力がなく、口許を緩めるだけで話を進める。

「会いに行く。これが最後になる。遺言はないが喋りたくなったんだ」
『……あぁ』
「これからのことは晶から聞いてるな?」
『あぁ』
「よし。あとは任せたぞ」

 顔が見えないからこそ言えることがある。遠く離れた人間の考えることは、通常時には見えないから。この感覚は普通の人間にもあるだろう。もちろん灰野にも。

『なあ冰。最初から決めていたのか』
「抽象的な質問だなあ。どれのことだよ」
『ぜんぶだ。仕組んでいたのか』

 見えていなくたってわかる。ずっと聞きたかった。そういう口ぶりだ。

「さあ。結果的には望んだ通りになったが。予想外のことばかりだった」
『過去形で語るな……』
「予想外のことばかりなんだ」
『失恋したこと、か?』
「おい。それは掘り返すなって」
『掘り返すさ。説明がなかったからな。お前からも片山からも』
「……ふみも言わなかったのか」

 見えていたら。
 言えなかったかもしれない。
 僕は、導かれるようにさらさらと、16年間口にできなかった言葉のすべてを吐いた。

「好きな奴がいる。最初から。君に出逢うよりも前から、会ったこともないのに好きで……ずっと見つけて欲しかった。そのためだけに生きてきた」
『……』
「見つけてくれたんだよ。……見つけてくれた。死んでもいいと思った。それで、ああ、これだって。できるだけ多くの人がこういう思いで死んでいけたらいい、って」
『……青臭いな』
「でしょ。最初からみんな殺すつもりだったんだ。そのうえで、誰も絶望させない。そういうことができたら最高だ。……彼奴が見ていて飽きない世界をつくりたかった」

 ひとつくらい、最高に優しい世界があれば。絶望するばかりの結末を幾度繰り返し眺めたか知れない君が、少しでも和やかでいられたら。僕は。
 揺れない心に暖かさが広がる。
 僕はこれを幸せと呼びたい。

『……そうか。私はお前の支えにはなれなかったか』
「えっ。そう来るか?」
『少しも頼ってくれなかったろう。お前はひとりを嘆くわりに自分からひとりでいた。何がお前をそうさせたのかが、いちばん気にかかっていた。知らなかったか?』
「口にはしないと思ってた」
『……最後だからな』

 最後だから言いにくいことも言えるというのは一理ある。普段から言っておけたらよかったかもしれないが、そうできない馬鹿だからこそ、この時の価値はここまで増したのだ。
 通信機が帯びたわずかな電気熱が薄暗がりに満ちる寒さをもみ消した。心はそれでも澄んだままで。ずっと、ふみの力が僕を支えているのだ。会ったら真っ先に礼を言おう。ありがとう。罪をおかしたことも含めて、君がいなければ、僕はきっとなにもできなかった。それと、愛は勝てなくても無駄にはならないよ、と。

「灰野」
『なんだ』
「悪かった。君が僕に頼られたいのも、死んでほしくないのもわかって無視していた。僕がいなくても幸せになれ。絶望せずに死んでくれ」
『そういうことは会ってから言え』
「会ったら言えないんだ」

 呆れを含んだため息。
 これもまた最後の。

『……切るぞ』
「あぁ。また後で」


2018年4月28日

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