[携帯モード] [URL送信]

見上げた空のパラドックス
44 ―side Seiya―

 冰千年は昔から強がりすぎる馬鹿だった。
 彼が特諜に入隊してすぐのころ、過去に何があったのかと尋ねたことは一度だけある。幼い彼は冷めた目で私を一瞥し、ぞっとするほど感情のこもらない声で「みんな僕を庇って死んだ」と答えた。彼奴がその他に自分の過去を喋ったことはほとんどないし、私も問うことはしなくなった。彼の発言とプロフィールを鑑みれば、何があったかは容易に想像できたのだ。停戦直前だったその頃に、彼の故郷は大規模な空襲にあって壊滅していた。生還者は、あろうことが彼だけだった。
 神様というやつは大変だ。物心ついてすぐの幼少から、否応なしにそう振る舞うことを叩き込まれる。誰かに死ぬ気で守られることによって。それでいて彼は死んだ仲間ではない誰かに縛をかけられ、自分に縄をかけた連中へ導きを授けてゆく。
 それを、人の心を保ったままで遂げているのだ。強がりすぎるし、強すぎる。私に対しては弱音のひとつも吐いてくれない彼の苦しみは、いったいどこへ押しやられているのだろう。いったい何が彼を支えていたのだろう。
 私に知る由はない。所詮、私だって彼に導きを乞う信徒でしかないのだろうから。
 その彼が――地下室からあがってきて、そこで待っていた私に、こう告げた。

「失恋した」

 言ってしまえば、こいつ頭おかしいんじゃないかと疑った。いつもおかしいとは思っているが。
 目覚めた片山を見に行くことを、冰がずっと躊躇っていたのは察している。それに関係したなにかを言いたいのだろうとは思ったが、それにしても脈絡がなさすぎる。

「……今まででいちばん理解不能な発言だ。わかりやすく言ってもらえるか」
「いや……。気にしないでくれ」

 そのとき気づいた。
 目が赤い。

「泣いたのか。おい、待てって」

 そそくさと立ち去ろうとする冰の肩を掴む。彼は素直に立ち止まって、いつかのような冷めた目ではなく、泣き腫らしてなお揺れる目で私を一瞥し、ひとつ頷いた。

「……何があった」

 午前の隊長室は明るく、暗がりのほうへ立ってこちらを見る冰の表情はよく見える。真っ赤に腫れた目にはまだ収まりきらない涙の影がある。彼は、いつものように強がるには強がりきれていない。こんな彼を目にするのは対策案第一実験のとき以来で、だから、今度は私が彼を支えようと思った。
 私の問いに、彼はかぶりを振る。

「誰にも言っちゃいけない。絶対駄目だ。かあさんにも言わなかったんだ」

 わからないことは追求しようと決めた日のことを、私はまだ覚えている。
 だからこちらも譲らなかった。

「冰」
「……なんだよ」
「かあさんって、どんな人だった」
「は? ぜんぜん覚えてないよ。六歳のとき死んだ」
「お前を庇ってか」
「そう。飛んできた爆弾に抱きついて、僕に破片が飛ばないようにしたんだ。町の人もみんなそれで死んだ」
「死に方だけは、覚えてんだな」
「……なんのつもりだ? いつもそんなの聞かないでしょ、君は」
「そんな時期から、そんなことがあっても恋をしてたのか。お前は」
「っ……」

 能力なんか使うまでもない。付き合いはいちばん長いのだから。どうすれば冰が折れるのかくらいよく知っている。こいつは嘘をつけない奴だから。意外と、口は緩いのだ。私が追及できる点に気づきさえすれば。
 冰は苦そうにうつむいて、私から後ずさった。そのまま真っ直ぐ逃げ出そうとするものだからたまげる。しかし、彼の逃走もうまくはいかず、痛む足がもつれたところでたやすく羽交い締めにした。

「走んな。痛むぞ」
「暑苦しい。離せっ」
「じゃあ逃げんな」
「言わせるでしょ、君はっ。マジで勘弁してくれ……! 掟なんだ……!」
「掟だって? 破ったらどうなる」
「どうも、ならないが……」
「じゃあ何故駄目なんだ」
「外の感知系はみんなそうしてんだ。僕だけ抜け駆けして楽になんか……っ」

 言って、急に冰が脱力した。

「あぁ……そうだ……抜け駆けならもうしたんだ……僕は……」
「冰?」
「灰野。僕の秘密なら、ふみに聞いてくれ」
「は」
「ふみは見破ったんだ。ふみだけは、知ってるから。僕から言うのは駄目だが、他人からならいいよ。これで納得してくれ。ふみにももうすぐ会えるんだから」

 逃げる気はもうないだろうと拘束を解くと、冰が振り返って私を見下ろした。もう涙の気配はなかった。

「灰野。僕は悲しくて泣いたわけじゃないんだ。心配しないでいいから」
「……お前の失恋は悲しくねえのか」
「もちろんちょっとは寂しいが。嬉しかったんだ。すごく……幸せだった。おかげで、頑張れそうだよ。最後まで」
「……」

 ものすごく複雑な気分になった。彼をずっと支えてきたものの存在がちらりと垣間見えた。それだけのことだが、それが自分ではなかったことが、少しばかり悔しくも思えたのだ。
 彼は不適に笑った。今までに見たどの笑みよりも自然な笑いかたをした。
 そんなに幸せになる失恋って、なんだよ、おい。キャラ変わってんじゃねえか。

「待ってろ灰野。僕の恋が実らないぶん幸せになれ。ぜんぶ取り戻してやるから」
「……そうかよ」
「あっ」
「なんだ」
「圭が目覚めた。行ってくる!」
「っておい! 走るなって言ってんだろうがっ!」
「いいんだよ、どうせ死期は変わんねえからっ」

 馬鹿言え。心配するこっちの身にもなれ。そんなこと言ったってあいつは聞きやしない。それもわかっているので、ただ、いつも通りため息をひとつ吐き出した。
 その足で、片山の様子を見に地下へ降りる。以前と寸分たがわず、死んだように眠っている姿がカーテンの向こうに見えた。どうやら、彼女の意識と成り代わっていたらしい誰かを、私はひそかに恨んでやることにした。

(ありがとうな)


2018年2月11日

▲  ▼
[戻る]