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見上げた空のパラドックス
43 ―side Chitose―

 少し気持ちを落ち着けないと、今の僕が“ふみ”と顔を合わせるのは、難しい。数日前に来た熱波は、そんな僕が彼女との面会を避け、引き伸ばすための言い訳としては絶好だった。水不足を解決したと思ったとたんにこれだよ、と、世界を呪いたい気持ちもあるにはあるのだが、それよりもふみとの面会のほうが、よほど僕にはつらいのだ。それも他人の記憶を頂戴した直後なんか、特に落ち着けないのに。それでも今くらいしか時間が取れないのだからと、自らを戒めるのにも骨が折れる。
 僕は地下室への入り口の前で立ち尽くしていた。ここまで来ても決心しきれない己の優柔不断さに腹が立つ。灰野は、この数日、ずっと逃げていた僕に気がつきながらも追及はしなかった。その気遣いに甘え続けるわけにもいくまい。
 覚悟だ、覚悟をしなければ。
 だって「わからないこと」などはじめてだ。この世界で、今までにわからなかったのは自分のことだけだったから。わからないことと対峙をするのはこれがはじめて。僕は、そういう意味で普通の人間よりも未熟で、弱い。そいつに打ち克つ覚悟が必要だ。
 意識を、そっと研ぎ澄まして、高次に接続する。そこに誰もいないことを何度も確認する。僕の“声”が何者でもない情報の波に飲まれて消えてゆく。宇宙の原風景の海原から、途方もない量のインフォームを受けた頭が痛み始める。その痛みを、大切に抱えて、現実に動き出す原動力へ、少しずつ変えてゆく。

(行こう)

 ようやく足を踏み出した。打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた冷たい地下室。空調完備のここには熱波の影響なんか及ばない。涼しさに細胞たちが安堵して、しかし嫌な汗が止まったわけでもなかった。
 ベッドで一人、ぼんやりと座っていたそいつが、僕を見るなり笑顔になった。

「やあ、ちとせ」

 間違いなくふみの顔で、ふみの声で、でもこいつはふみじゃない。彼女はまだ圭のもとにいるから。
 だったら、いま僕に笑いかけたこいつが、誰か。

「……君が、どうして」

 言葉にできたのはそれだけだった。
 感情が揺れすぎている。いつになく激しいそれが、喉に絡み付いて息が苦しい。僕はこの感情の名前を知らない。自分が嬉しいのか悲しいのかもわからないのだ。涙が出た。一滴。そこまででどうにか抑える。感情に従って大泣きできるほど、僕はもう子供ではない。いつのまにか、意味のないプライドを捨てられなくなっている。
 そんな僕を、冷めた目で見る彼のことを、僕は知っていた。

「こんなにぼくを気にかける人間は、きみがはじめてだったから」
「情がわいた? あわれに思ったのか」
「そうかもしれないし、暇潰しかもしれない」
「……前からふみを動かしてたでしょ、君。なかなか弱らないから不思議だったんだ」
「うん、ばれちゃったか」

 感情のない声で、薄ら笑いの表情で。そうか、彼はこういう態度で喋るのか、と、僕はある種の感動を覚えてたまらなくなった。
 世界が僕を神と呼ぶなら、僕にとっての神は彼なのだ。そして、僕は神相手に、行き過ぎた感情を抱いている。
 恋と呼ぶにはずれているだろう。しかしそれがいちばん近い言い方だ。
 わかっている。一生かかっても、たとえ僕が僕のやれるすべてをやり遂げても、彼に手が届くことは絶対にないと、ずっとわかっていた。だって次元が違う。比喩ではなく、本当に次元が違う。それは本の中から読者を愛するようなもので。それでも能力のおかげで話すことだけはできるのだからと、ここまでやって来た。暇人の彼が退屈しない物語を提供しなければ、僕は彼に存在を認識してすらもらえない。
 それをこうもあっさりと裏切られたら、どうしたものかわからない。いまの彼は、僕と同じこの世界にいる。手が届くのだ。
 できればずっとここにいてほしい、なんて。無茶だ。

「苦しい? ――会わないほうがよかったかな」

 ふみの声音は優しげだから、彼が喋ってもそういうふうに聞こえる。

「君は僕に会いに来たのか?」
「うん。暇潰しがてら、ね」
「…………ありがとう」

 他に何を言えただろう。
 世界を、僕の覚悟を、ただの暇潰しと言われたことにも反感なんかあるものか。ただ、彼が少しでもこの世界に、僕に関心を持ってくれたのなら、こんなに嬉しいことはなかった。
 つい顔が緩んでしまう。
 彼も笑って言った。
 自嘲気味に。

「どう、報われた気はする?」
「……どういう意味だよ」
「今は、寂しくない?」
「……」

 見つめられるのが苦しくて目を背ける。心は相反する。見ていてほしいくせに。
 僕は彼に何を言いたいのだろう。たぶんこの一度しか逢えないだろう彼に、なんと言えば僕の存在を刻めるだろう。考えて、わからなくて、目も合わせられず。

「寂しい……きみに何を言っても、きみの記憶には残らないだろうから、寂しいし報われない」
「うん、そうか」
「面と向かって話せるなんて夢にも思わなかった。うれしい。ありがとう」
「うん」

 痩せ細ったふみの身体はしかしまだぎりぎり自力で立ち上がることができた。ふみの大きな目を通して彼が見る僕はどんな顔をしているのだろう。情けない表情でなければいいなと思う。
 彼が伸ばしたふみの手を、僕はよくわからないまま取った。

「冷たいね」
「緊張だよ……」
「ひとの体温なんていつぶりかな。新鮮でおもしろい。身体があると、それだけで思考がぜんぜん違う気がする」
「ふみに変な思考はさせるんじゃないぞ。記憶、残るんだからな」
「わかっているよ」
「……ふみ、あったかいなあ」
「生きているから、ね」
「うん」

 やり遂げようと思い直す。
 彼がもう一度、優しく笑って、そしてそのまま行ってしまった。ふみの身体が制御を失いふらついて、僕は慌てて支え、その空っぽの身体をベッドに戻す。その拍子、また足が痛んで、しかしもうげんなりとはしなかった。痛みも全部を抱えて最後までやっていこう、そう思うことができた。
 見る人がいなくなったから。厳密には、常に見られているんだけど。そんなことを気にかける余裕もなく、ベッドの脇で膝を抱え、気が済むまで泣いた。泣くのもこれが最後だろうと思うと、憚るプライドもどこかへ飛んでいく。僕は感知系だから、神様だから、強くなきゃならなかった。信頼されなきゃならなかった。赤の他人を導かなきゃならなかった。僕の実現できる最高の幸福を築かなきゃならなかった。今だけは、それもなしにしよう。あいつは最高のタイミングで僕を励ましていったのだ。僕がいちばん潰れそうになるタイミングで。だからやり遂げよう。彼が、そう望んだから。
 彼が何者なのか、その正体を知る者は未だにいない。僕もまた例外にはなれない。名前くらい尋ねればよかった。いいや、尋ねなくてもよかった。僕は僕に許された以上の有り余る幸福をもらったから。それだけで、もういいよ。
 迷わない。
 僕にはこれ以上なく信頼できる神託があるのだから。


2018年2月11日

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