[携帯モード] [URL送信]

見上げた空のパラドックス
45 ―side Kei―

 苦しい。苦しくてたまらない。
 理由は簡単だ。ただ、ただ暑い。うだるようなというほど湿度は高くないのだけど、気温が高ければとうぜん不快な汗をかかざるを得ない。水が少ないこの時世に熱波が来ると、バタバタと人々は死んでいくので、人は暑いと感じるときに最も大きな不快感、あるいは恐怖を抱くのではないか。
 久々の酷暑が日本を襲っていた。
 8月10日午前10時37分。私は、苦しさで目を覚ました。
 霞む視界には薄汚れた宿舎の天井がある。窓から本来差し込むはずの光は布で遮られ、代わりに外からの風が部屋に舞い込んでいる。私はそのなかでもとりわけ風当たりのいい場所に寝かされていた。枕の上にわだかまった長い髪が首に触れて、暑さを助長する。

「う……ご、け……ない」

 脱水だ。視界がなんとなく暗く、定まらないうえ、とにかく身体が重い。
 記憶を掘り返す。私は、そうだ、水を組織に運んできた直後、代償疲労性症候群で倒れ、様子を見に来た灰野と少し言葉を交わして、おそらくそのまま意識を失ったのだ。しかし、それにしてもこの暑さは何事だろう。前ぶれなく来る熱波は珍しくはないけれど、それだってもうちょっと気温は緩やかに上がるはずだ。いきなり、こんな酷暑にさらされるなんて。
 暑さのさなかで顔を青くするしかできなかった私のもとに、バタバタと足音が届く。続いて部屋の扉が開いた。

「っ圭! 大丈夫!?」

 冰だった。足の具合はまだ悪いらしい。
 そんなことよりも私の具合が悪いから、そちらを優先することにする。

「冰さ……、みず……を」
「飲めるか? 点滴の方がいい?」
「飲めますから……起こして、くれません、か……」
「おっけ」

 助けを借りて身を起こし、コップ二杯ぶんほどの水を少しずつ摂取する間、冰が組織の状況を語った。

「もうみんなだいたい回復したよ。暑くてバテてはいるが。今は君が倒れた夜から四日経って五日目の朝だ。熱波が来たのは一日目だった。あ、和美は無事に捕まったぞ。いまは処分を検討中だ」
「そう……ですか……、死人は」
「出なかった。少なくとも和美の件ではね。暑いから、これから出るかもしれないが」
「じゃあ……」
「うん、約束は守る。ただし、その前に君が回復してくれないと。点滴は定期的にしてたんだが、もう五日もなにも食わずに寝てたんだ。めちゃくちゃ体力落ちてるでしょ」

 話を聞いていると、いっそう血の気が引くように感じられた。身体は資本であり命綱だ。身体が弱っていれば兵士を務めることなどできない。これから順調に回復したとしても、歩けるまでに数日、走れるまでには一週間、もとの体力が戻るまでに一ヶ月は見なければならない。そのうえこの熱波で水不足でも起こったら、間違いない、もっとかかる。
 下手をすれば死ぬというつもりでやったのだから、この程度で済んで良かったと言えないわけでもなさそうだけれど――私はそういうわけにもいかない。だって――

「圭。君に、灰野から通告だ」
「……はい」
「“戦闘員復帰の目処が立つまで食事係を手伝え”。まあ、まずは歩けなきゃ駄目だろうが」
「……はあ……そうですか……」

 復帰、なんて。そんな日は来ないような気がしてきました。
 水の運搬を引き受けたときには、こうして死期を悟るに値する目覚めを経験することになるとは思わなかった。その場で死ぬか、生き残ればなんとかなるだろうというくらいに考えていた。しかしどうやら現実はそう甘くはないようだ。じわじわと弱るなんてロマンチックな死に方はしないと思っていたのに。
 傍らに立つ冰が、うつむいて諦念にひたる私を見下ろし息をついた。

「どうして病気になったのに捨てないんだとか、言われると思ってた」
「……灰野は、わたしにご執心なので」
「灰野“は”って。僕もさ」

 彼は、飄々と、しかし苦々しく言った。

「悪かった。僕の不手際で君をこういう状態にしてしまった。晶に会ったらぶん殴られそうだ」
「……」
「なあ、そのことでちょっと話があるんだが、いいか?」

 せっかく起こしてもらった身体を倒して、私はふたたび天井を見上げた。
 身体がだるいからなのか。心のほうもあまり働きたくないようだ。凪いだ心境のまま、色々なことを諦めてしまったような冷めた感覚だけがあった。だから、投げやりな口調で、どうぞ続けてくださいと言った。冰はうん、と軽く頷いてから、

「君たちを、分離したい。圭、君の寿命を伸ばすために」


2018年2月9日

▲  ▼
[戻る]