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見上げた空のパラドックス
42 ―side Chitose―

 怒濤の数日が過ぎた。結局、ふみと顔を合わせる機会はなかなか得られず、ずっと走り回っていた。生命主義者としては、健康体のふみよりは病人が優先だ。炊事洗濯から介護まで。いつになく働いた。熱波が来たから、皆の回復は想定よりも遅い。三日ほどすると、どうにか動けるほど回復した輩がちらほら出始め、四日目にそれがまた増えてくると仕事はようやく楽になってくる。五日目で半分ほどが回復し、ここまでくれば怖いものはもう熱波だけだった。
 ――圭は、あれきりまだ目覚めなかったが。
 その日、和美を捕らえた捜索隊がようやく帰ってきて、僕はまた駆り出された。隊が言うには、彼女は隣町で路頭に迷っていたところを余所の組織の兵士に拾われ、被虐を受けるとともに隠されていたらしい。嫌な話だった。
 そして、いま、和美のいる小部屋へ向かっている。足はこの疲労の最中では欠片も回復のそぶりを見せず、相変わらず歩む際には痛みを生じる。圭に指摘されてからというもの、足音には気を付けているのだが、まだまだうまくは直らない。内心はいらいらしながら自分の足音を聞き続け、部屋の前に立つ頃にはもう心がまいっていた。
 ため息一つで気合を入れ直し、ノブを引く。

「大人しくしてるか? テロ犯」

 室内は風が通らないから、ちょっと油断して水分補給を怠れば死ぬんじゃないかというくらい暑い。そんな中でも、少女は行儀よく椅子に腰かけたまま動く気配もなかった。数日に及ぶ虐待の直後とは思えない落ち着きぶりで、澄んだ目で僕を見上げている。僕は、こういう奴の相手をするのは好きではない。純真さは、まぶしく、うらやましく、浅はかだからだ。
 彼女は敵意の感じられない穏やかな口調で話し出した。

「……なぜ、わたしを牢にいれないのですか?」
「ストレスをかけたくないからさ。暴走されちゃ困るでしょ」

 彼女は一瞬だけ泣きそうに、顔を歪めた。この組織の人員への類を見ない待遇のよさは異能者相手であっても健在だ。それを理解しながらも自ら切り捨てるのだから。

「わたしは罰を受けるはずです。組織の生命線をこわしたのですから。どうなりますか。わたし、売られるのですか」
「それだけで済むと思ってる?」

 丁寧な物腰の少女は、すぐ落ち着きを取り戻し、脅しにも動揺するそぶりは見せなかった。

「いいえ。ただ、ここで殺されはしないと思うのです」
「理由を言ってみろ」
「あなたは、怖い人には見えないですから」

 その心が純真であればあるほど、汚してしまいたいという欲求が高まる。僕はそんな自らをなだめるべくかぶりを振った。疲れていると邪念も多くなる。彼女へのインフォームは極めて危険だ。すべきではないのだ。
 彼女の目的は、高瀬だ。高瀬を探し、見つけ出すことだ。そのために逃げたが、逃げたあとはもう、自由になろうが捕まろうが構わなかったのだろう。自由ならばそれはそれで高瀬を探すように動けばいいし、捕まれば高瀬と同じように売られることになる。しかし、ここで誤っているのは、彼女は高瀬が市場に送られたと信じていることだ。自分も捕まって市場に送られれば……と、考えたらしい。もし、そこに誤りがなければ、なるほど彼女は大した切れ者だった。

「まあ、正解だ。ほうびに、君には選択肢をあげよう」

 喋りながら彼女の意識に潜っていると、頭が痛くなってくる。澄んだ視線の奥からこの脳内へ、ファリアに入隊する以前の彼女の記憶が流れ込んでくる。こういうとき、自我を定義し守るのは、実はかなり難しいことだ。他者との記憶の共有によるアイデンティティの喪失。この感覚はたぶん披験体のみなよりひどいんじゃないか。
 僕が自我を定義するに必須とする要素は三つ。情報の真偽にこだわりすぎること、擁護派であること、生きる目的を忘れていないこと。
 大丈夫、僕は今のところ一度も僕を見失ったことはない。

「高瀬に会って死ぬか、会わずに生き残るかだ」
「……!」
「能力で対抗しようとは、考えないほうがいい。ファリア上層部はみんな異能者だから。生きていればいつか、ってこともまずないね。高瀬ももうすぐ死ぬんだ」

 彼女にとっては最もつらい選択だ。
 停戦直後の混乱と貧困のなか、自らの母の死体を食べて生き残った彼女にとっては。生きなくてはならないという強迫観念と、高瀬への憧れの間で揺れる彼女にとっては。
 落ち着き払っていた彼女の表情が、やっと曇り始める。

「明日までに決めてくれよ」
「なぜですか……。なぜご存じなのでしょう……」
「僕は神様だから」

 言ってやるなり彼女が目を見張った。疑いもせず、即座に信じる姿勢をとる。純真さの賜物だ。嫌気がさしてくる。

「……驚きました……わたしには、あなたに歯向かった天罰がくだるのですか」
「うさんくさい言い方だなあ」
「だって! もし神様に出逢えたら、かならずお伝えしなければならないお願いがっ……わたしにはあったのです……!」

 少女は涙ぐむ。もうそれが叶えられることはないだろうと悟って。
 僕は歯噛みしてその言葉を聞く。

「……わかりました。明日までに答えをご用意します……。だから、お願いします。もしもわたしが赦されることがあれば……母を、わたしを……記憶を、連れていってください」

 未来へ。
 誰もがそう言う。誰かが死んだとき、自分が死ぬとき、その覚悟ができたとき。忘れないでと。誰もがそう言う。誰もがその呪いを受けて生きてゆく。僕はそれが大嫌いで、なおかつその呪いを最も多く引き受けた人間だ。感知系であるとは、そういうことでもあるのだ。どうせ永くは生きられないのに、彼らの記憶を、行けるところまで連れて行かなければならない。
 彼女は極めて速やかに覚悟をしたのだ。子供ほど死にやすいからか。さあ死のうというときに喚くのは大人であることのほうが多い。何年も生きてこられたという自信――言い換えれば、これからも生きられるという過信。悲しいことだが、それが少ないほど、死を受け入れるのは容易になる。

「……また明日。変な気は起こすなよ」
「はい」

 澄んだ目が、それを守るために死んだ彼女の母の想いが、僕を貫いた。自分となんら関係のない他人の激情に蝕まれ、僕はその部屋をそそくさと逃げ出す。廊下に出ると、生暖かい風が我が物顔で通っていった。
 インフォームしないと。誰かに渡さないと。この呪いを誰かに転嫁させないと。記憶を未来へ受け継がないと。僕は生きてゆけない。でも、渡してもいい相手が今はいない。
 僕はただいつものように、やり場のない焦りのさなかに沈む。


2018年1月28日

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