見上げた空のパラドックス
40 ―side Higure―
消毒液のにおいが染み付いた部屋。
入室するや否や俺が高瀬に会わせてくれと言ったので、晶は慌てるなと制して椅子を勧めた。
「少し様子を見てくる。大丈夫なら呼ぶ。待っていろ。立ち歩くな」
その時点で嫌な予感がしていた。
運が良ければ。大丈夫なら。
それはどういう意味なのだろうと。
晶は数分後に戻ってきて、俺を上階の個室へ招いた。薬棚の立ち並ぶ廊下を抜けて扉を開くと、殺風景で窓もない六畳の部屋にぽつりと敷かれた布団、そこに座り込んだ少女の姿があった。こちらを見ていた。
考えるより先に身体が動いた。駆け寄り、抱き締める。ぼさぼさの短い茶髪から消毒液のにおいがする。細い肢体が心配になって力を弱める。常日頃から彼女を切望してやまない俺が、いざ彼女を前にすると、なにも言葉にならないのだから笑えてくる。苦しい。
彼女は驚いて身じろぎこそしたが、後にはなにも言わない。不安になって彼女の顔を覗き込んでみるが、目が合うこともなかった。終始ぼんやりしている。
「話すのは、今は少し難しい」
「……高瀬はどういう状態なんです。前はもっと普通だった」
「きのう暴れたから。疲れたんじゃないか」
「暴れた、って……」
そこで気づく。
青空の両手が背中で縛られている。それもかなり危うい態勢で固定され、紐の上から粘着テープが念入りに巻かれている。これではとても自由には動けない。
「なんだ……これ」
「手に終えないから。彼女が暴れると」
「暴れるって、なんです」
「死のうとする。あらゆる方法で」
即答。彼の口調はあっさりとして、嘘の色などまったくない。
ようするに彼女は狂っているのだ。心が攻撃的に研ぎ澄まされすぎている。いつかのような生気のないそれとは真逆なのかもしれない。
彼女の目を見つめながら、それを徐々に理解して、俺は憤りを携え振り返る。
「あなた、高瀬に何をしたんです?」
「記憶を戻している。おまえのことも含めて」
「……っどうしてそんなこと! 青空は忘れなくちゃ生きていけない!」
「大丈夫だ」
「何が!」
「彼女を生かすつもりはないから」
淡々と言って、晶が青空に歩み寄った。そこではじめて青空の態度が変わる。目に光が戻り、彼女は言葉を出そうとして、それに失敗して咳き込んだ。晶がその肩を軽く叩く。彼女が顔をあげる。
「喋れるか」
「はい」
「日付と場所。以前の所属。言ってみろ」
「八月九日、寧連町。ファリア第一戦闘隊Γです」
「十日だ。他はあってる。きのうのことは覚えているか」
「……、すみません、わからないみたいで……、」
謝りながら青空はうつむいて、その目から透明な涙が落ちる。俺は言葉を失う。人の感情が溢れる瞬間をもろに見てしまったからだ。それがなんなのかはわからない。ただ彼女は表情を変えずに泣いた。何かを言おうとしている。けれどもうまく聞き取れない。
晶はいたって冷静で、すぐ俺に対し退室しろと合図を出す。俺はそれに首を振って拒む。
「出ていけ」
「いきませんったら」
「おまえは、」
高瀬青空の根底に何があるか、知っているのか。問われ、俺は首を振る。
その時、彼女が乾いた喉からようやっと言葉を紡ぐ。
そして俺の思考は止まる。
「かいのま」
高瀬がこちらを見ていた。涙に濡れた目は変わらず澄んでいる。俺はそれだけで理解する。彼女は、もう俺のことを思い出しているのだ、と。理解するやいなや、ある種の歓喜と恐怖がない交ぜになって喉を圧迫した。呼吸が塞き止められれば、俺だって苦しさは覚えるものだ。耳鳴り。視界が狭くなってくる。それでも、彼女から視線を逸らすことができない。
視界の隅で晶が動く。
「ころして」
「え」
「あなたが生かしたんだ、私を……」
彼女のそんな声ははじめて聴いた。
呪詛。
俺は動けない。
驚くこともない。
そうだろうと思っていたからだ。
「どうして死なせてくれなかった」
答えてはいけない。刺激したら何かが起きる。彼女が容易に動けない状態にされていてよかったと思い始めた自分に嫌悪する。緊張感がさらに息苦しさを加速させて、頭がくらくらしてくる。動けない。
「みんなと一緒に、死なせてくれればよかったのに――!」
少しうれしかった。彼女の本音を聞けたことが。つらさを感じるのは、たぶんもっと後のことになるだろう。いまはそれどころではない。
彼女の紡いだ言葉が、酸欠の知覚にびりびりと響いて、手足が痺れる。泣きそうになる。彼女の呪詛だけが脳内に木霊して、他の思考は排除される。
俺が。消えてしまうような気がした。
(俺にはとんだとばっちりだ……青空のことなんかどうでもいいのに……)
なんでわざわざ彼女のために生きなきゃならない。
こんな面倒なのと真面目に向き合ったって、不自由なだけだろ、なあ。
憎まれてんだぞ、わかってんのか。
(わかってるけど)
仕方ないだろ。それでも彼女を幸せにしてやりたい。俺は、青空の絶望した顔しか見たことないんだよ。見たいんだ、笑顔が。
――息が戻る。
人格交代と言うにはささやかだ。そもそも多重人格って訳じゃない。むしろ逆で、複数の魂を一個体のなかに閉じ込めてしまうっていうのは、他者を自分と切り離せなくなることだ。自分を切り離す行為とは一線を画する。
ともかく俺は彼女の呪詛という拘束を解かれ、動いた。晶が背後でかまえていた銃を取り上げて、グリップを逆に持ち、彼女に向かって、降り下ろした。
2018年2月8日
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