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見上げた空のパラドックス
38 ―side Chitose―

「晶、片山ふみの身体が目覚めた」
『……目覚めた?』
「何が起きたかわかるか?」
『……あり得ないと、思うが』

 通話越しの声も、僕も、揺らいでいた。
 何か重大なことが起きているという認識。それさえできなかったなんて、僕には今までなかったことだ。ましてやふみのことでとなると、焦らずにはいられない。いや違う。何故、何も見えないのか――ひとつの仮説が、急速に僕の脳内で構築されてきていることこそが、僕を焦らせる最大の要因だ。

『様子はどうだ』
「僕は直接見ていないが……虚ろだと。魂はやっぱりない」
『その状態で、意識を制御できるわけはない。仮に意識が回復していたと仮定しても、目を開くとか、表面的に動き出すことはないはずだ』
「僕もそう思う。だが目覚めて、起き上がったって」
『……すまない……わからない。お前が見たほうが早いんじゃないか』
「そう……、だなあ。うん、そうする」

 何も見えないんだ、と言うことはできなかった。僕が“見えない”事柄なんてひとつしかなかったはずだ。そう考えればもう見えたも同然だから。
 僕は揺らいでいた。真実が見えるからこその自信というものを、完全に喪失していた。
 もしこの仮説が本当だったら、それはいったいどうして。
 わからない。
 その恐怖が、夜道をいっそう暗く見せる。

『……お前は?』
「え、何」
『お前はどうしたんだ。体調、悪いようだが』
「……」

 僕は黙ってハンドルを切った。爆弾を避け、クレーターを避け、遮蔽物のないおかげでまっすぐに引かれた地平線を目指して黙々と走り続ける。濃紺の星空はもうすぐ朝色に変わるが、僕の夜はまだまだ明けそうにない。
 異能などなくても鋭すぎる彼にはお手上げだ。顔も合わせていないのに、話すだけで相手の不調を見抜くとは。

『すまない、聞かれたくなかったか?』
「君さあ、なんか信じられないくらい気配りできるよな」
『……何も言わない身内が多かったんだ。全部、察するしかなかった』
「圭のことか」
『……』
「おっと。今のなしでよろしく頼む」
『お互い、そうしよう』

 彼はわずかに苦笑すると、抑揚のない淡々とした声音をまた紡ぐ。

『なあ、冰』
「うん?」
『高瀬は……』

 遠く東の空が白みだしているのが見える。青謐な空気が車内にまで舞い込む。今日も涼しい、真夏だ。
 こんな時間に連絡を飛ばしても瞬時に応じた彼はいったいいつ眠っているのだろう。眠らないことに慣れているとしたら、よくない兆候だ。少なくとも健康ではない。
 僕が言えたことでもないのだろうが。

『高瀬は、なぜ、こんなに……死にたがるんだ』
「市場の件がトラウマなんじゃあないのか」
『いいや……。どうも、それだけじゃない。なにか……』
「なにさ、歯切れ悪いな」
『……あいつ、自棄とは違う……自分を殺そうっていう、明確な意志がある』

 やがてファリアが地平の先に見えてくる。帰ってからもやるべきは多いと思うと、少しばかりげんなりした。いい加減、せめて食事をとらなければ動ける気がしない。しかしこのつまらないドライブが終わると思うと達成感もあり、僕は両の意味合いでため息をつく。それから視線をあげると、ちょうど、朝焼けが世界を覆った。眩しさに視界が霞み、ブレーキを踏む。
 朱い――。
 熱を帯びた光が荒野に降り注いだ。
 寒々しかった外気が、急に温度をあげ始める。

「ようは、怖いってことか」
『……ああ。認める……』
「おう、奇遇なことに僕もだ」

 今日は暑くなりそうだ、と東の空に滲む焔を睨んだ。この大変な時期に、どうやら本物の夏がやってきてしまったらしい。僕はさらにげんなりしながらアクセルを踏み込み、ラストスパートを駆け抜けた。目的地が、ぐんと近づく。
 暑さは苦手だ。僕の最も嫌うもののうちひとつだ。熱波が来れば水が減り、簡単に人が死ぬ。戦うことすらできずに干からびて死ぬ。そうして、汚染された土に埋まっても、他の生命の苗床にすらなれはしないのだ。そうでなければ生き残った者が死んだ友を食すことになる。どちらにせよ最悪だ。だから暑さは嫌い。

「おい晶、外、すげえ朝焼けだ。見てるか?」
『……高瀬が見たら、卒倒しそうだな』
「このぶんじゃ暑くなるぞ」
『ああ』
「あ、それとだ。近いうちに圭を連れてくよ」
『えっ……』
「んじゃ、よろしく」

 通信機の電源を落とすと、もう車庫が目前に迫っている。門に人手がないこともわかっているので、一度みずから降車して門を開き、車庫に車を納める。それが終わると非常用物資の不足分を確認して倉庫に駆け込み、補充しておく。
 すると、車庫の入り口から見慣れた白髪頭が息を切らして走ってくるのが見えた。
 疲弊した心身の緊張がやっと緩んで、その場に膝を落とす。

「冰っ。無事か!」
「煩ぇ。落ち着いて喋れ。頭に響く」
「なんか食えるか? レーションで良ければすぐ出るぞ」
「食う……あと、忙しいとこ悪いけど、15分でいいから仮眠とらせてくんねえかな……」
「むしろ頼むから寝ろ。歩けるか?」
「肩貸して」

 ふらふらと立ち上がり、灰野の助けを借りて宿舎へ戻る。道中、現在の組織の状態を聞かされ、僕はぎりぎり死人を出さずに済んだとひとまず安堵した。あとは皆の体内から毒が排泄されるまでの辛抱だ。それまで皆の体調が保てば、乗り切れる。いま動ける人員にも疲れが溜まってきているが、僕が回復すれば休ませてやれるだろう。
 朝焼けはまだまだ続いている。車庫から宿舎への道は朱く眩しい。目の眩みに任せて倒れそうになるのを踏ん張ると、足の傷がずきりと痛んで、もやのかかった頭が急に冴えた。冴えてしまうとそれに伴って色々なことが見えてくる。僕は灰野の横顔をちらりと見て、お疲れ、とつぶやいた。
 宿舎、自室前。灰野が気まずそうにしていたから、僕は彼の肩から腕を外してじゃあねと告いだ。

「大丈夫か。歩くのもきついのに」
「大丈夫じゃないって言ったらどうするよ?」
「……そんだけ軽口言えりゃ上等だ。起きたら知らせろ」
「了解」

 かすかに安堵した面持ちの灰野に軽く敬礼して、入室する。


2018年1月18日

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