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見上げた空のパラドックス
37 ―side Seiya―

 呆然と――橙色の花のたもとで、私はただ呆然とその光景を見つめた。

 青白い顔の患者たちでパンクした医務室を抜け、指令室の最奥から地下へ下ると、その一角に彼女は眠っている。この施設内で唯一、空調設備の完備された空間は、それとは裏腹に打ちっぱなしのコンクリートにぐるりと包まれ、冷たい印象を与える。さまざまな機器が乱雑に配置された部屋の片隅にあるカーテンレール、そのなかがここ二年間ほどの彼女の家だった。
 ずっと不思議だと思っていた。彼女が目覚めることなく二年もしたのに、もともと衰弱気味だった肢体ではあるが、彼女がなぜか衰弱してゆかない。その理由を冰に問うたこともあったが、冰はきっぱりわからないと答えたのだ。人間、誰だって動かなければ弱るだろうに。
 彼女は――目を覚ました。
 そして、あまつさえ、自力で、起き上がった。
 水の騒動で彼女のライフラインを切った直後のことだった。事件が発覚して真っ先に血相を変えてすっ飛んできた医療班の少年が、片山の意識回復を私に告げたのは。その直前にもう冰たちは組織を発っており、まだ連絡さえできていないから、事態の把握もまだだ。
 彼女は私を見ていた。目覚めてからこのかたずっと動かずに私を見ていた。その目は空虚で、生気と呼べるものはまったく感じられない。空虚な彼女に向かって口を開くことはやけに躊躇われて、私の行動もまた黙って彼女を見つめるに留まった。彼女の視線は、空虚ではあるが、強い。私は金縛りにあったように動くことができない。冰に連絡だ、連絡をするんだ、と思考だけが焦りを募らせ、しかし足は踏み出せず。そのままでどれほどの時が過ぎただろう。
 硬直した私を救うように、地下室の重たい扉が開いた。私はようやく金縛りから解かれ、息をつきながら振り返る。

「久本ちゃんが帰ってきました。代償疲労がひどいみたいで、今は宿舎に」
「……わかった。少し見に行く」
「彼女は……、まだ喋りませんか」
「ああ」

 魂のない身体が意識を取り戻した場合、どうなるのか。私はそれをいくら考えてもわからない。記憶、人格、意識。その三つのうち人格のみが存在しないとき。
 わからないから、地下室の扉をくぐりながら連絡機を起動する。

「冰。大丈夫か」
『そりゃこっちの台詞だ。そっちはどう』
「けっこうひどい。が、いま水が届いた。助かりそうだ」
『さすが早いな。僕のほうは明日になるよ』

 電話口の向こうからノイズ混じりに聞こえる冰の声には、やはり疲労がにじむ。できれば、彼の疲労を嵩増しさせたくはないが、緊急事態だと腹をくくって告げる。

「冰、片山が目覚めた」

 沈黙。
 そのうちに、医務室へあがってきて、宿舎へ向かう。

『……マジで?』
「お前がそれを聞くとは驚きだな。マジだ。……虚ろだ。意識だけがある。こういう状態は、ありうるかもしれないだろう」
『待ってよ』

 夜半の星空のたもとを歩き、宿舎に辿り着くころに沈黙が破られた。

『…………何も見えない』

 困惑。そんな色味のある声が、電波に乗ってこの耳に届く。私はこの時点で不信感を抱いた。冰がなにかに困惑するなど、そうそうあったことではない。
 私はその意味を考えようとするが、やはり冰の言うことは非常にわかりにくく、結局はいつものように問うことにする。

「どういうことだ」
『僕にも、彼女の身に何が起きたのかわからないってことだ』
「……は、まさか。お前が、“わからない”だって?」
『他のことは見えるから、能力のせいじゃあなさそうだ。悪いが、君が直接調べてみてくれ。何かわかったら言って。僕は専門家に聞いてみる』
「了解した」
『じゃ、また』

 通信が切られると、急な静寂が耳を貫いた。この緊迫も今だけだろう。水が回復したのだから、食事と薬はこれから行き渡らせることができる。
 私は足早に廊下を歩み、目的の部屋の前で立ち止まりノックをする。もちろんリアクションがあるとは思わないため、そのまま扉を開いて入室する。見やれば、二つあるベッドのうちひとつに久本が踞っていた。意識はあるらしく、その弱々しい目がこちらを見ている。

「お前に聞きたいことがあって来た。プロトタイプ」
「……そう、呼ぶのは、やめてください」

 彼女の赤みを帯びた薄色の目が、一度だけ閉じられ、再び開かれたと思えば、彼女は震える手で起き上がる。体調がすこぶる悪いことには変わりないようだが、どんな魔法を使ったのやら、彼女はすらすらと喋りだす。

「あなたが訪ねてくるとは思いませんでした、灰野。わたしの……、ふみのことですね」

 私は思わず動揺してしまう。物腰や視線の強さが、まるきり私の知る片山のそれだったからだ。高瀬と初めて話した頃と同じ感覚だが、こちらは偽物ではなくそのもの。落ち着け落ち着け、と忙しなく感情を巡らせる自らの内心に向かって呼びかける。彼女は、たしかに片山だが、記憶はまるきり別物だ。私のことは何も知らないのだ。

「…………お、お前、気付い……たのか」
「おかげさまで。お辛いなら圭のふりをしましょうか?」
「……。お前の本体が、さっき意識を取り戻したんだ。なんらか心当たりはあるか」

 どうにか自らを鎮めることに成功して、躊躇うことなく力を使って問いかけた。が、彼女はすぐに首を振る。

「いいえ。何も。用件はそれだけですか?」
「ああ」
「では、お引き取りください。……あまり長く痛みを無視していると、よくないですから」

 震える全身を何事もないかのように操り、彼女は微笑む。その痛々しさまでもがかつての片山と重なり、言われなくても私は逃げ出したい欲求にさらされていた。むしろいまはすべてから逃げ出したい。虚ろな片山の視線からも、目の前の彼女からも、病人ばかりのこの組織からも。

「ああ、そうしよう。お前は養生しろ」

 背を向け歩く私に、彼女の視線が痛かった。彼女は私のこの弱気だってよく見えているのだから。

「灰野、」
「……なんだ」
「怖がることはありませんよ、あなたにもわたしにも、神様がいます」

 いざ去ろうという時に限って、私を呼び止め、そうやってにこやかに心に踏み込んでくる。片山がよくやっていたことで、私はとうとう耐えられなくなった。なぜ私は彼女を訪ねてしまったのだろうという後悔が腹の奥にぐるりと生じる。片山がいつか増幅したらしい私の感情は未だに健在だ。感情とは、考える手間をショートカットして生き延びるに最適な選択肢を選ぶためのヒトの機能にすぎない。誰かを愛せば、誰かの隣にいれば、死亡するリスクが下がるから、そうしたいと願う。それがどうしてこんなに息苦しさを呼ぶのか。私には知る由もない。
 意識は簡単に感情に乗っ取られる。
 敵にもなりうる立場の彼女に、決して弱みを見せるべきではないと知りながら、私は彼女を抱き寄せていた。彼女はいかにも困った、と表情であらわし、

「……驚きました。ふみが好きなんですね」
「……」
「わたし、悲しみますよ。自分のために貴方の立場を危うくさせたって。貴方が幸福にならない限り。そう考えたことがありましたか」
「……」
「独り善がりのくせに。……行ってください。見つかったら大変です」

 わかっている。そんなことは。
 これは私のエゴだ、と。

「すまない」

 今度こそ彼女に背を向け、部屋を去る。


2018年1月14日

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