見上げた空のパラドックス
31 ―side Kei―
わたしを殺せばよかった。
わたしが死んでおきさえすれば。
わたしがあのとき、生き残ってなんかいなければ――――
わたしが潔く消えることを受け入れてさえいれば――――
わたしが彼と出逢わなければ、なにもはじまらなくてよかった。対策案第一実験は成功しなくてよかった。ファリアはできなくてよかった。わたしと高瀬さんは出逢わなくてよかった。こんなに大人数を危険な目にさらさなくてよかった。あなたにそんな顔をさせなくてよかった。
わたしがいたから、それらが起きた。
自責。自責。自責。自責。
「え……ふみ……?」
当惑しきった声が、わたしを呼ぶ。
「水はわたし以外の全員に分けてあげて。状況、苦しいんでしょう。あなたがそんな顔するなんてなかった。ほんとは足りないんでしょう、水」
「…………」
「あなた、もう動き回れる身体じゃないよね。死ぬ気? ――たぶんそうだよね」
「……」
「わたしを生かすために」
自責。自責。自責。自責。
圭がわたしに隠していた“わたし”の部分が、たったいま、開示されたみたい。
対策案第一実験日の虐殺で、三人だけ出た行方不明者。ひとりは久本晶、ひとりは灰野誠也、ひとりは片山ふみ。魂のないふみの肉体が何者かに盗まれたということだ。それが灰野誠也だとすれば、あとのことの推測はあまりにも容易い。それを、わたしは、思い出せないようになっていたのだ。万一にも希望を持たないように。わたしが圭のなかで朽ちる魂だということを、わたしに受け入れさせるために。
その隠された記憶が、いま、急に浮かび上がってきたのだ。
正直言って、希望を持ってしまいそうにもなる。わたしはまだ死んでいないのではないか。生きてゆけるのではないか。彼にもう一度逢えるのではないか。でも、そのすべてを自責の一言が覆す。自責。自責。そうか、これがわたしの魂の核なのかと、どこか他人事のように考えるわたしがいる。
なんで、いまさら、記憶を。
わたしのなかの圭は答える――私は死にたくないから。あなたに水を渡すわけにはいかない。まだ、わからないことがあるから。いま彼が破綻したら、私はもう晶に近づく機会を失うだろうから。
わたしは、どうする。希望を得たわたしは、圭として圭に従って、このままわたしの肉体を殺すことができるのか。
(できるよ、圭)
(わたしは圭だから)
自責以外の記憶は、やっぱりないままだから。だったら、大丈夫。わたしは圭だ。覚えていないくせに以前のわたしに持てる希望なんて少なすぎるよ。そんなことにはなにも懸けられない。なにも懸けられない、くだらない存在だ、わたしは。
高瀬さんからいつか借りた、そのままのナイフを抜いて、自分の首に当てる。
「……ちーちゃん」
呼ぶと、当惑一色だった彼の目が据わった。
荒野の真ん中にぽつりとたたずむ車内で、わたしたちは命を懸けて対峙している。
「君が死んだら、ファリアは解散する。人員のみんなは路頭に迷うし、灰野と僕は特諜に出頭して殺されるよ。僕が消えれば、特諜は研究をどれくらい強引に進めるか知れない」
「……」
「それでも、水が届くまで、君のライフラインを切る? 君の身体はもともと弱ってる。死ぬ可能性は、かなりあるよ。これ以上罪を増やすのか。それも構わないって言うなら、君の言う通りにするよ」
わたしのために築かれた城。それがファリアであると、たったいま彼は認めた。わたしは唇を噛む。ここ数日、必死に探っていたファリアの正体は、わたしのなかにあったのかと。
ちーちゃんは、ずるい。
その言い方をされればわたしに為す術がないということを、誰よりもよく知っているのだ。圭が、せっかくの覚悟でわたしに記憶を明かしたのに、結局それは無駄になるのだろうか。うん、そうだよ、知っている。圭は不器用なのだ、こういうときに限って。
砂埃はすっかり風にさらわれ、雨上がりの空が荒野の上空で悠々とひかっている。わたしはそれが気にくわなくて、俯いた。止まった車のエンジン音が、しばらく流れた。
そして――彼は笑いだした。
「いやあ、ぜんぶ冗談だよ! 参った。参りっぱなしだ。このタイミングでそうくるとは思わなかった。君、面白いな!」
彼は昨夜のように楽しげに笑んでいる。わたしは意図を汲みかねて、ただ沈黙を返す。
「心配ないよ、圭。そういうことじゃないんだ。水のことはたぶん大丈夫。ただ、ちょっと難儀なことがあってね」
「……?」
「行きながら話そう。水、はやく買いに行かないと、ほんとにみんな死にかねないぞ」
促され、わたしはしぶしぶハンドルを取る。直近で水を売ってくれる町まで全速力で走っても、着くのは夕方頃だろう。そこで取引をして、組織に水が届くまで――やはり、最短で三日だ。今日中だなんて物理的に無理がありすぎる。どうする気だったの、ほんとに。
加速度が車内に響くなか、再び彼が口を開く。
「要するに、輸送時間を短縮できればいいわけだ」
「……どうやって?」
「うん。空を飛ぼうと思う」
「空、を……?」
あ、ものすごくいやな予感がしてきた。
「まさか……」
「うん」
「正気? さすがに……倒れるよ? 死んだらどうするの」
「死なせない」
「何を根拠に?」
「そう、その根拠がないから厳しかったんだが」
「……」
言葉にならず、呆れと羞恥と後悔と怒りとその他諸々の感情によってわたしの思考はまっさらになった。一瞬でも自責の念を忘れるくらい、雨上がりの空と同じくらい、まっさらになった。相変わらず、単調なエンジンの音だけが、車内にずっと響いていた。
あなたって人は。
まったく、あなたって人は。
息をつき、私も笑った。
「で、なにかくれるんですか、冰さん? あなたのヘマで死ぬほど働くわたしに」
「呼び方も口調も戻したのに態度が全然戻ってないよなあ。でも、やる気出してくれたみたいでよかった。……取引は、また後で」
よくないです。一歩間違ったら本当に死にます。
輸送機は、車ではなく、私。私が最高速度で持っていけるだけ持っていけという話だ。しかも、おそらくは往復で。
「心配させたのは悪かった。言い訳させてもらうと、君を危険にさらすのは、まったく僕の本意じゃないんだ。ばれたらただじゃ済まされないから」
「……誰にばれたら?」
「それは、“内緒”だ」
「…………」
またデジャヴュがあったせいで、私は彼を睨み付け損ねる。
「でもまあ、君が飛ぶってことは、誰にばれてもやばいだろうな」
「……ええ。それは、わかっています」
異能力による人命救助措置。そんなものに短期間で二回も見舞われれば、さすがの殲滅派の精神性も根本から揺るぎかねない。あらゆる意味で、ただ事ではないのだ、これは。
それでもたぶん大丈夫だろうと思えるのは、悔しいけれど、この間抜けで思わせ振りで偏屈な少年が、隣で楽しそうにしているからだ。だったら付き合ってやろう、という意識が湧きあがってきてしまうのだ。平気で軽々しく命を懸ける人の隣にいるから、感化されてしまうのだ。
私はまた少し笑って、アクセルを踏んだ。
2018年1月8日
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