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見上げた空のパラドックス
30 ―side Kei―

 食堂は閑散とし始めていた。もういつもよりは遅い時間だから、子供たちも焦る様子なくのんびりと片付けに勤しんでいる。けれどもいまから食堂に入るという輩がいないわけではないようで、私は少しだけ感心する。けっこう長い間やってるんだなあ、と。それでいて子供たちは未来の戦力として訓練を怠ってもいないわけだから、下手をすれば私たちよりずっと動き回っているのかもしれない。
 入室して感じた違和感は、それだけではなかった。違和感、という感覚はこういう時代に育った以上は命綱であり、大切に扱うべきものだ。無視することなく、私は落ち着いて食堂を見渡した。そしてすぐに気がつく。
 いつもは最も活発に働いている、年長者の少女が、今日に限っていないのだ。
 と、重心が急に後ろへ引かれ、私は咄嗟に振り返る。冰が、いつもの笑顔を浮かべず、同じように部屋を見渡していた。そして入室して五秒と経たないうちに私の腕を引っ張りもと来た道へとって返す。彼の足取りは思ったよりしっかりしている。薬のせいか晴れたせいか、昨日よりは調子が良さそうだった。
 離してください、と言って手を振りほどく。冰は手こそ離したが、険しい顔をゆるめず矢継ぎ早に話し出す。

「圭。まず言っとくが、いいか。僕がいいと言うまで絶対に飲食するな。耐えられなかったら車に積んである非常用を摂って。それと、少しの間、傷を固めてくれるか。ちょっと行ってくるから。君は車の準備をしてくれ。許可はとっとく。部屋にライフルがあるから、持っていって」
「……了解。ご武運を」

 どんなに急でも、こういうとき、上司の指示に対して疑問を持ってはいけない。実直に聞き入れ即座に実行する。基本中の基本だ。
 彼の傷を固めると、合図もなく、二人、別々の方向に走り出す。私は宿舎へ、彼は本棟へ。何があったかは彼の言動からだいたい推測できたけれど、今は考えるときではない。部屋に駆け込み、ハルパーを背負い、ライフルを抱えて車庫へ走る。旧い日本製の電気ワゴン車の後部座席に武器を積み、非常時用物資の確認を済ませる。そのタイミングでちょうど冰が走ってきた。ここでは先に車の準備をした方がハンドルを取る。つまり私だ。助手席に彼が乗り込む。

「出して。町の方に行って」
「はい」

 車はこの荒野で生き残るにはどうしても必要だから、車庫の警備はひときわ厚く、出るにも門の解錠のため数分のタイムラグがかかる。その間じゅう冰はひたすら険しい表情で前方をにらんでいた。彼がそんなに必死になるとは、珍しいこともあったものだ。

「くそ……だから子供は嫌いなんだ」
「状況を聞いても?」
「和美。貯水タンクに細工をしたらしい。朝食をもう摂ったやつらはそろそろ腹を壊すだろうね。君が寝坊してくれてよかった」
「……」

 なんてことだ。
 水を買い直すのに、最低で三日はかかるとして――その間、水なしで生きるわけにもいかない。非常時用に車や倉庫に積んであった水のみで組織内全員が三日も生きていられるかといったら、それも微妙なところだ。一度でも衰弱してしまうと、そのまま感染症にかかって死に至るケースは決して少なくない。さらに、感染症に限って言えば、一人が病気になれば、同じ建物に暮らす私たち全員が危なくなる。そもそも、既に大多数がなんらかの毒によって体調を崩すことが決まっているわけで、そのまま三日も少量の水のみで生き繋ぐ? 無茶な話だ。
 水は生命線。水がやられれば、私たちはたちどころに死ぬ。
 それをひとりの子供が引き起こしたというのか。

「動機って……、高瀬さん、ですよね?」
「だろうな。さっき高瀬を引き渡してきたんだ。それも、あいつらが起き出す時間だったから……見られたみたいだ。和美が事を起こしたのは、僕が出てってすぐのはずだ」
「……」
「非常用水、悪いがほとんど皆の飲料水にはできないんだ。今日中になんとかしてやる」

 どう見ても、この人がいちばん、一日中動き回っている。そんなんでよく身体が保つなとは思うけれど、そういえば全然保ってないな、と思い直す。

「あの。和美さんを煽ったのは……あなたですよね」
「そうだよ」
「何故、ですか?」
「動機は、はっきりさせなきゃいけなかった。わからないものがもやもやしている状態がいちばん危険だ」
「……黒なんですね」
「そう。……よかった、あいつはけっこう頭が良さそうだ。水でトラブルが起きれば僕らはそっちに付きっきりになって、隙ができるだろう。そこで逃げるつもりだったらしいね。高瀬を追うために。そこまで思考がクリアーなんだったら話はしやすい……。和美の捜索は、いま動けるやつらみんなに命じてきたよ」

 和美さんがこの“夏”、新しく、危険な異能者として目覚めたという話だ。
 大抵の異能者の力は精神に依存するから、整理のつかない鬱屈に苛まれている状態が最も危険とされる。異能者が精神的に追い詰められれば、かの東京大火災のような事件が起きることもそうそう珍しくはない。そうやって、自らでも制御の難しいほどの能力の暴発、つまり“発作”が起きれば、組織まるごとが吹っ飛んでもまったくおかしくないのだ。それによって滅んだ町がいくつあったことか。
 そう考えれば冰のしたことが間違っていたわけではなさそうで、しかし、私はそれに反発した。

「わかり次第、殺せばよかったのに……」

 そうだ。それがいちばん確実で、被害が少なく済む方法。それこそが異能者狩りと呼ばれる戦争を引き起こした直接の理由。
 程度の差はあれど、発作が一度も起きない異能者なんていない。
 どんな者でも異能があれば、それに伴うとうてい無視できないリスクがある。だから、殺そうと決まった。しかし、殺されそうになるという恐怖がまた発作を呼んだ。悪循環に陥った。そしてこの世界ができあがった。

「僕は人を殺せない」
「……殺せない?」
「殺しちゃいけないことになってる。次殺せば、僕が殺される。特諜生まれにはよくわかる話でしょ」
「だったら、人に言うとか……」
「圭」

 呼ばれたとき、やっと門が開く。私はゆっくりとアクセルを踏み込んで、荒野に車を走らせる。

「僕は異能者擁護派なんだよ」
「……」
「和美も殺す気はないし、今回の件で死人も出さない。ひとりも、出すもんか」

 怒り。私の目にそれが映る。
 強烈なデジャヴュに陥って、めまいがして、私は急ブレーキを踏んだ。
 タイヤが砂を弾いて、埃を巻き上げ、晴天を覆い隠す。同時にがくりと身体が揺れて、シートに背中が戻ったとき。刹那的に感じたデジャヴュが終わったとき。わたしのなかの無意識が、結晶の海の底からあがってきた気泡が、弾け、叫んだ。

「――独り善がりのくせに!」


2018年1月8日

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