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見上げた空のパラドックス
17 ―side Kei―

 色とりどりの結晶の山が――わたしの細すぎる体躯をささえていた。自力では腕を持ち上げるにも苦労するこの身体が、しかし結晶の海のなかでは自在に動き回れる。わたしは宝石のような物質に満たされた美しき世界で、自らの醜悪を省みずに進むのだ。
 透明にひたされた水面には、繰り返し映る記憶がある。血と炭素化合物と硝煙とアンモニアの臭い、それらの感じられないまっさらな過去の抽象だ。怒号の飛び交う訓練場。空薬莢を踏んで痛めた裸足で駆ける、同僚の笑い声。恐怖にとらわれた大人たちの諦念を帯びたうつろな目。まばらな銃声。
 迫害。
 それが迫害だと気づいたのは、いつのことだったか。
 わたしたちは生まれる前からそれらを当然なものとしてやってきた。苦しみを苦しみだと知覚する機会など、本来は与えられていなかったのに。なぜ、わたしは自らへの迫害に気がついた?
 実験前――久本圭と晶との会話に、こんなものがあった。

「ようは、物質の問題だ。幸不幸っていうのは。ある特定の化学物質が多いか少ないかで、人の幸福が決まる。つまり、化学的演出によって、幸福に向かおうとする人々をあやつることができる」
「化学的演出……かあ。幸不幸に境遇は関係ないってこと?」
「いや。境遇が作用するほうが普通だ。たとえば、だれかの不幸を演出すること――それを、暴力って言うんじゃないか。暴力を日常的に受けていれば、たぶん、幸福とは言い難い。一般的には」
「じゃあ、わたしは、不幸?」
「それは、化学物質を測らなきゃわからない。やつらの私達に対する不幸の演出が、成功しているのかどうかは」

 水面にこの記憶を投じてわたしが思うのは、しらじらしいなあ、というのに尽きる。彼等は二課の子供たちで唯一、幸福というものを知っていた――お互いという愛すべき家族がいたから。幸不幸と名のつく“感覚”をいちばんに認識したのは、紛れもなく彼等なのだ。
 二番目が、ふみだった。一課のふたりが二課の敷地へ潜り込んできたあの日、片山ふみは自らが不幸であることをはじめて認識した。自らの境遇を知った冰千年の心に、明確な憎悪を見いだしたのがきっかけだった。
 二課の子供たちは外の暮らしを知らない。日夜、迫害されながら、能力調整薬に脳を浸し、教育を受け、諜報活動に従事し、ときに人体実験にその身を明け渡す。それだけが、みなにとって世界のすべてだった。幸も不幸もそのなかに収まりきっていたわけで、幸を目指して生きるヒト共が、その檻から逃げ出そうなどと考えることもない。逃げ出せば殺されると刷り込まれていたことも大きいだろうが。
 だのに、二課の体制はここへ来て簡単に崩壊した。世界の外側の幸福を知ってしまった、三人のイレギュラーによって。対策案第一実験日。決定的だったその日を迎えるより何年も前から、三人の行動は普通ではなかった。弟のためにと職員を惨殺した圭はもちろん、独自に薬の研究を進めていた晶、定期的に二課からの侵入者と交流していたふみも。
 結晶の海の底から、記憶を映し出す水面を見上げ、わたしはすべてを客観した。
 わたしはなんだろう。
 外ではあり得ないのだけど、ここでは、わたしの定義は曖昧になる。プロトタイプ。いつもは嫌いなその呼び方が、ここでは最もしっくりくるのだ。
 ああ、いけない。わたし、嫌なことを考えている。
 自覚し、思考を手放す。煌めく結晶の波がわたしという抽象をさらって流れゆく。呑み込まれる。色とりどりの光につつまれた世界が遠退き、慣れ親しんだ闇が急激に近づいてくる。
 寒気がした。次に、じぶんの右側に重力と硬度を感じる。私は床に倒れているのだ。なぜ? はっと目を開くと、呆れたような声が降ってくる。

「うわ、起きた。大丈夫? ……じゃ、なさそうだなあ」

 冰千年。
 脳内に弾けるものがあった。私はとつぜん胸の塞がる思いに駆られたのだ。おかしい、と思う。こんな息苦しさをおぼえるような理由がどこにあるのか。わからない。ただ、ひたすらすべてに違和感がある。窓を揺らす雨風、それらが形作るだろう池の水面の黒さ、世界を満たす冷気、笑顔を浮かべない彼の立ち姿、私という存在、そのすべてに。
 おかしい。
 無言。
 私はひとまず起き上がる。

「あの……私、どうしたんでしょう」

 ぼんやりとつぶやく。金桐町調査から帰還し、部屋に入ってこのかたの記憶がなかった。

「僕は見てないが。倒れたんでしょ。オーバーワーク?」
「……いえ。そんなはずは。私、代償疲労は、あまりないほうです」
「ふうん。ま、なんでもいいが。いまは平気か?」
「はい。大丈夫……です」
「そう」

 短く返したきり彼は複雑そうに黙った。とたん、言い様のない焦燥感が私を襲う。何に対しての焦燥かは定かでなかったけれども、私はそいつに従って直ちに動くことにする。迷っていられる余裕がいまの私にはなかったからだ。
 感情が混濁している。その理由さえ思い当たらない。こんなことは、今まで、たぶんなかった。
 これは形も成さない感傷だ――彼に対する。

「冰さん」

 なにかをしなくてはいけない。なんでもいいから、なにかを。
 内心を悟られぬよう、しっかりと背を伸ばす。

「ん?」
「ひとつ……お伺いします。高瀬青空のことで」
「ああ。うん、構わないよ」
「……まだ、なにも言っていません」
「リボンのことでしょ。君が落ち着いたら届けに行こうか」

 やっぱり見透かされていた。
 この感傷も。
 混濁が急速に収まってゆくのを感じ取る。嘘を吐き損ねたいたたまれなさ、ある種の気恥ずかしさに気分が収束していったのだ。あらゆる違和感がかき消され、あとには、ああ、逃げ出したいなという欲求のみが残る。
 そんな私の硬直を目に、彼が吹き出した。
 え、それは笑えるんですか。
 私が呆気にとられている間に、彼は雨風で煩い窓枠に布を貼って落ち着かせている。笑いながら。

「いやあ、かわいいなあ、君は」
「……あの。ものすごく……馬鹿にしていますよね?」
「うん」

 緩衝材の作用で、窓を震わせていた雨音がだいぶ遠くなる。私はそれにふっと安堵の息をついた。年下の少年に笑われていることへの呆れや諦めに似たものも、安堵の前では霧散する。そして気づく。思い出す。そうだ、私は、雨というやつがすこぶる苦手だったのだ。いわゆるトラウマみたいなもの。どうして今まで気がつかなかったのだろう。どうして、

(あれ、どうして苦手なんだっけ)

 一瞬だけ疑念が思考に過り、そのまま消えて、再び私がその疑念を思い浮かべることはなかった。私の混乱は過ぎ去ったと見た彼が、窓枠を離れ、そそくさと扉に向かったからだ。
 私は慌ただしく、なぜかそうしなければならない気になって大切に保管していた高瀬さんのリボンを取り出し、その背を追った。


2017年12月20日

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