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見上げた空のパラドックス
11 ―side Higure―

 狭苦しい牢の中心で踞る彼女は至って静かだった。あれから、余計なことを喋りはしないし、俺が話しかけなければ、心ここにあらずといった様子でぼんやりと虚空を眺めていた。なぜそんなにじっとしていられるのかと聞けば、こういうのは余計に動かない方が楽なんですよと返されてまた奇妙な心境に陥る。彼女は監禁慣れしているのだ。

「あのさ、一緒に、」
「逃げようですか? それならお断りします」
「……なんで?」
「皆を殺したくないので」
「殺さなくたっていいだろ、別に」
「私は殺さない戦い方を知りません。私が逃げるとしたら、つぎ、売られた先で逃げます。あなたが逃げたければお一人でご自由にどうぞ」
「……」

 そうか、彼女は人殺しにも慣れているのか――と。またひとり悲しくなって、有り余る暇を黙って過ごした。時間の感覚はないが、何回か眠ったので数日は経ったろうと思う。その頃、俺に迎えが来た。また英語でいろいろ言われ、鎖を外されて牢を出る。振り返り見た彼女と目があった。かすかに笑った。だから変に暴れはすまいと思って、そのまま組織を去った。また出会える確信があったからだ。
 少なからず、進展だ。彼女がこの世界にいることは確認できたし、状況はひどいがわりと元気そうだった。それだけわかれば今はいい。今は。
 送りの車の運転席に座っていたのはやはり彼で、俺はほっと息をつく。日本語が通じるとは素晴らしいことだ。

「明千町まで送ろう」
「ありがとうございます。准尉」
「うん、この貸しは重いぞ」

 ありがたいのはいいが、この人から借りるというのもまた怖い。俺の笑顔は若干ひきつったと思う。彼がいま言った“貸し”とは、途方に暮れた俺を拾い上げて町へ戻してくれることだけを指してはいないだろう。青空と俺を引き会わせたことに関する、貸しだ。そうすると重みは尋常でなく感じられる。いったいなにを返せというのか。
 だいたい、何のために会わせた? あの状況の彼女と俺に、なにを期待したのだろう。彼は特に、理由もなく動く人ではないと思うのだが。
 そう考えを巡らせていることさえ彼には筒抜けなのだろうからこれまた滑稽なことだ。だんだんとみじめになってきて、結局俺は口を慎んだ。あのまま何日も身体を洗えていないことの方が目前の問題としては重かったという理由もある。町についたら極力人目を避けて家まで戻らなければならない。帰路をどうするか考える方が先だろう。
 大丈夫、返せないなら貸さないはずだ。たぶん。

「海間、高瀬とは喋れたか?」
「はい。初めてまともに話しました」
「驚いたみたいだな、いろいろ」
「それはもう……、あの……、東京大火災のことって」
「本当だ。ぜんぶ彼女がやった」
「……」
「君の潔白のほうがここじゃ異常なんだがなあ。そんなに気になるのか、ひとを殺すのが?」

 本当に何気なく、のんびりとした声音で問われ、俺は一瞬だけ恐怖をおぼえる。

「私にはこの世界そのものが異常ですので」
「はは、言うじゃん。この世界のせいか? 決めつけるのはよくないなあ。彼女は、ここに来る前から殺しについては手練れだったよ」
「っ……」
「本当だ。戦闘はからきしだったんで、けっこう苦労したみたいだが」

 彼が言うなり、窓外で流れていた果てしない荒野が急に動きを止め、身体が前への圧力に揺れる。車を止めた意味をわかりかねて運転席の彼を見やって、俺はしまったなあと思う。彼はうまい。ひとを操るのが、とても。このタイミングで俺に銃を向けた意味はいったいなんだ。そうだ、俺はいま丸腰で、ついでに言ってひどく動揺していて能力の使用も覚束ないから。
 青空がひとを殺すということ――それが俺にとってどれほどかを、冰千年は俺以上にわかっているのだ。
 先程感じた恐怖が、じわりと拡がる。

「やあ、悪いね」

 だんっ、と狭い車内には大きすぎる銃声が耳をつんざき、咄嗟に自ら数えた穴は腹に三つ。どれも貫通せず臓腑の内側に留まる。間髪入れずにもうひとつが心臓の位置。俺はまだ撃たれた実感を持たない。ちかちかとする目の焦点を、必死に合わせる。黒い目がしっかりと俺をとらえている。
 なんでだ。おかしいだろ。おかしい。それに苦しい気がする。わからない。熱い。
 きょうにかぎって、実弾だ。
 そりゃあ俺にゴム彈撃っても効果はなさそうだけどさ。
 ほぼ間をおかず、しかし俺にリアクションの暇は与えながら、慎重に撃ち込まれてゆく銃弾。黙って耐えるべきなのかどうかもすぐにわからなくなる。撃たれる。撃たれる。圧迫感と異物感の積み重なるばかりで、俺がいくら気持ち悪さにあえいでも、いくら経ってもいっこうに死ねない。数分間。彼は機械的に彈装を空にする作業に勤しんだ。俺はそれを手伝っただけだ。――俺“は”?
 まずドアを必死になって開き、車外に転がり出る。そのわずかな衝撃で腹内の弾丸が擦れ、内蔵組織をぐらぐらと揺さぶる。口許から呻きが漏れる。痛くない。痛くないことが、いちばん痛い。銃口は俺が動いても逸れることなくつけてくる。また一発。死に物狂いで、俺は走る。圧迫感。圧迫感。苦しい。耐えろ。
 余裕ぶって出てきた彼はまだ銃撃をやめない。20を越えた辺りで俺にはもう数える余裕が消えた。無様に転げ回り、どうにか光を使おうとしても次の銃撃で力が霧散する。駄目だ、無理だ、俺はいま何回死んだんだ。
 咳き込む。全身に刻まれた銃創に響いて不快感を催す。動けない。くそ。土を掴んで顔だけ起こし、車を背に悠々と立つ敵を睨み付ける。虚ろな目と銃口の闇がかぶって見えて、身震いする。銃声。いつのまにか追い詰められていた俺は背後のクレーターに転げ落ち、背中を打ち付ける――デジャヴだ、あの時の。歯を食い縛って全身を巡る感覚に耐えようとして、俺は、唐突に「ああ、この身体はもう耐えられないのだ」ということに気がついて脱力する。そこからが始まりだった。

「……死ね……、」

 血反吐と同じ色の声、その残響がそのまま恐怖となって身を焼いた。

(ちがう)

 穴のなかで起こせるはずのない身体を起こし、強かに地面を蹴る。すぐさま、俺の身体は遥か上空へ投げ出され、回転しなから急降下をはじめる。身体はいい加減に麻痺をおぼえる。銃口はまだこちらを向いている。それを好都合だと笑う声がある。

(俺じゃない)

 銃声と共に増える銃創、その刹那に俺は煙をあげるバレルに素手のままでしがみついた。落下の勢いのまま小銃をもぎ取り、焼ける手を気にせずふたたび跳躍し、遠く離れながら瞬時に銃を構え直す。狙いを定めるのは一瞬でいい。俺を殺した上官に迷わず銃を向け、俺は引き金に指をかける。


2017年11月21日

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