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見上げた空のパラドックス
8 ―side Higure―

 やらかした。女の前ではどんな英雄も狂うというから、たぶん俺のような雑魚が彼女に敵うことは百年経ってもないのだろう。情けないったらないが致し方もない。いやしかし、これはもしかすると仕組まれたのかもしれない。だとしたら本当にしてやられた。
 鎖を引きずり、牢の隅で膝を抱えて泣いた俺を、少し離れた場所で拘束された青空が見ていた。変わらない鮮やかな花色の目と、かなり変わって以前よりはよほど生気のある顔をしていた。俺を覚えてはいないようだった。ただ、たしかに彼女は青空だった。
 再会のしかたとしては最悪だ。ロケーションもシチュエーションもさることながら、何で俺はこんなに情けないのだろう。いつもは保てる冷静さが吹っ飛んでしまった。そこにいるのが青空だとわかった刹那から、俺はとめどなく涙を流した。

「……落ち着きました?」
「ごめん、大丈夫」
「よかった」

 穏やかな声音をしていた。俺はそれを聞いたことがなかった。心を殺していた彼女としか話したことがなかった。彼女の絶望した顔しか見たことがなかった。
 いろいろなことが気になる。何があって心を取り戻したのか。どういう経緯でこんなところにいるのか。だが聞くことはすまい。思い出さなくてもいいと言ったのは俺だ。そして彼女が俺を忘れることを選んだ。俺はそれを阻んではいけない。

「あの、あなたも取引待ちですか?」
「ん、うん。もってことはお前も?」
「そうですね」
「そっかぁ。えっと、異能者なのか?」
「はい」

 臆面もなく肯定され、しばらく黙ってしまう。この時代に生まれ育ったわけでもない人間が異能者となると驚かざるを得ない。しかも、数ヵ月も隣の席で見ていたのに、まったく知らなかったのだ。そりゃあそうか。誰だって隠す。俺もそうだった。実は、皆が隠していただけで、あの学校にもけっこういたのではないか。そう思ってしまうあたり、俺もこの世界に馴染んだなあと憂鬱になる。

「なに系なんだ?」
「系、って?」
「知らないか。こう、異能には系列があってな」 
「ああ、P、W、Sのことですか」

 彼女に異能の分類に関する知識がないのは当然だった。おそらくこの世界独自のものであるうえ、どうも世間ではその手の話題はほとんどタブーとされている。あまり普通に暮らしていて得られるような知識ではない。けれども多くは知っているのだ。昔で言うと小学生にとっての性知識みたいな感じか。
 だから、彼女が聞き返してくるのは想定済みだったのだが。なにやら変化球を返されてしまい、俺は戸惑う。

「なんで英名……? そのことだけど」
「ならPって。よく言われてた気がします」

 Pが想念系、Wが言語系、Sが感知系の英名である。
 ここで問題になってくるのが、あの慣習――味方には母語で、敵には英語で話す――だ。彼女は英名のみを知っていた。しかも、露呈すれば命に関わるがために滅多なことでは話題にしてはならないとされる事柄について。そのうえ「よく言われてた」って、なんだ。それはつまりどういうことか。敵に、長期的に、異能を知られていた?
 一気に嫌な予感がしてきて、俺は表情を険しくする。

「あのさ……、市場に……、いたのか?」

 暗い鉄柵の向こうから返答はなかった。
 沈黙は肯定と同義だ。
 俺は青ざめ、奥歯を噛み締める。

「ごめん。聞かなかったことにしてくれればいいから」

 傷つけたかもしれない、という恐怖を、鎖を握りしめる痛みでもみ消す。
 俺は市場に何があるか知らないし、知りたくもない。二ヶ月前、東京大火災が世間を持ちきりにしたとき、市場に関する評判はさんざん耳にした。異能者の起こした事件だろうとは言われたが、どちらかと言えば皆は加害者に同情的だったのだ。異能者への憎悪を抱えるこの世界で。無理もない、と。売り物に対する迫害はウン百年前も今も変わりないのだと。特に年齢層の高い者ほど異能者売買について快く思っていないらしく、行き着けの食品店などではよくよくそんな話を聞いた。
 それを予測しておいて軽々しく口にした。俺だってトラウマを掘り返されたくはないくせに。無神経極まる。
 どこまでやらかすんだ俺は。

「……あなたにだけ言います」

 長く沈黙を経て、青空が口を開く。どきりとするほど固く冷たい、以前と同じような声音で。

「え、な、にを?」
「東京大火災の犯人は私です」
「……へ?」
「何万人殺したんでしょうね。よくもまあ、こんなところでのんびりしていられますよ、私も。早く死ねばいいのにな」
「は、ちょ、待って」
「突然ごめんなさい。まあ、驚かせたのはお互い様ということにしてくれるとうれしいです」
「ちょっと待った。理解できるように言ってほしい」

 頭大丈夫かこいつと思ってしまった俺も俺で頭やばいと思うんだ。
 ではこうしますか。彼女がそう呟くなり、目前の空気中に熱が集まるのがわかる。すぐにそれは燃え出し、朱く焔を形作る。ちいさな火の粉はそれ以上拡がることはなく、ただ暗闇に光を灯した。俺は、その光の向こうで、青空がまっすぐこちらを見据え、泣きそうな顔で震えているのを見た。火、まだ駄目なんだな、とぼんやり考える。

「信じてもらえましたか」
「……うん」
「あまりやると怒られますから、消しますよ」
「うん。ごめん。俺、嫌なことを聞いただろ」
「大丈夫。……誰かには、知っておいてほしかったんです」

 無理に微笑んだ顔を照らす朱い光が、消える。胸を満たす寂寥に震えて、俺はつい名前を呼びそうになって、慌てて飲み込む。
 青空を、助けなくちゃ。
 俺の目的は、俺が海間日暮でなくなっても変わらない。
 錆びかけの鉄格子に触れる。その管一本が、淡く青緑に発光し、無数に燐光を産み出し散らす。青空が涙目を見張って振り返る。俺は必死になって光をつくる。明滅する蛍のようであり、星空のようでもある。とにかく俺がいちばんと心に思う光を。生まれてこのかたずっと虐げられてきたこの光を、いま初めて誰かのために。

「……きれいですね」

 彼女の心からの笑顔を、初めて見る。
 また泣きたくなったのを、俺も笑顔でごまかした。


2017年11月19日

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