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見上げた空のパラドックス
4 ―side Higure―

 車から降りてきたのが見覚えのある人物だったので、俺は少なからず胸を撫で下ろした。願いが叶ったとも言おう。本当に何でもない顔で、やあ奇遇だな、ところで何をびびってるんだ? と呼び掛けてきた彼を目にしたときは、一瞬幻かと思ったものだ。
 おそるおそる顔を上げて、その姿を目に納める。軍服を着ていない彼を見るのははじめてだ。十中八九、任務中だろう。しかし、なぜ、こんなところに都合よく居合わせたのか。

「え、……冰准尉……? あ、待った准尉、私に何があったかは訊かないでください」
「うん。それで、何があった?」
「っ……“いいえ。何もありません”」

 視線が冷たい。先ずもって状況把握に務めた彼は、それから少しだけ黙って、こともなげに言葉を続ける。

「そうか。助けは必要か?」
「……お願いします」
「じゃあ少し手荒い手段を取るから覚悟してくれ。歩けるか?」

 言われたままクレーターを出て立ち上がる。ひどいにおいのはずだが、彼は何も言わず俺を車に押し込み、自身も運転席についた。
 他に人は一人だけ乗っている。外見から、誰なのかはすぐさまわかった。管轄は違うが、話は聞いている。特諜から逃亡し、新たに組織を立ち上げたという元曹長だ。その彼が、丸腰の俺に挨拶代わりとばかりに銃口を向けた。俺は臆しない。

「お目にかかるのは初めてですね。私のことはご存じですか」
「一課の新入り、“幽霊”だろう」
「そのあだ名は好みませんが」

 外にまでそのあだ名で広まってんのかよ。いや、特諜自体が機密機関だから広まってはいないだろうが。
 あながち間違っていないのがさらに恐ろしい。

「お前は道端で拾った異能者として売るふりをして逃がす算段だ。うちにいる間はいやな目にあってもらう。万一、特諜にこちらの情報を流した場合は、本当に売り飛ばすからやめておくんだな。本音を言えばここで潰しておきたいが、」
「駄目だよ、そいつ殺したら」
「と、神様が仰せでな」

 楽器が旋律を引き継ぐような自然さで話す二人は、伊達に何年も共闘してはいないらしい。
 俺が特諜に拾われる一年前に起きたという大量殺人事件当時、逃亡者は二人いた。その一方を俺がいま追っていて、目の前の白髪の青年がもう一方というわけだ。その逃亡者の立ち上げた組織に発足当時から潜入していることになっている冰千年が最初から特諜に従属などしていないことは俺も承知している。むしろ彼が特諜を従属させている様相なのだ。彼が奔放なのは当然かもしれない。
 俺はというと、特諜への帰属意識さえないに等しい。そりゃあそうだ、死なないんだから。逆らったら死ぬという恐怖が皆を統率している。俺はそれには当てはまりそうにない。

「貸しひとつだ、海間」

 冰千年が運転席からちらりと振り返る。

「恩に着ます」
「それと、念を押しておくが、組織内では大人しくな。何があろうとだ」
「はい」

 いやな念押しに、内心で身構えた。彼がかすかにも不穏なことを言い出したらただでは済まないことは、訓練期を経て身をもって知っていたからだ。白の青年もまたわずかに眉を潜めた。
 それからすぐ、二台の車が待機していた地点へ到着し、車に見知らぬ人が乗り込んでくる。皆の視線が総じて氷点下なのはまだよかったが、なにしろ俺はいま臭い。鼻を押さえられたらもう、皆に頭を下げたくて仕方がなかった。そんないたたまれなさを無表情でやりすごすうち、車はどこかの敷地に格納される。青白い顔をした兵達に囲まれながら、俺は慎重に降車し、その足で簡易的な地下牢に連れられる。じめじめして暗く狭い仕切りのなか、黙って鎖にくくられながら、なるほどいやな目にはあいそうだと考えた。
 国際化の激しい昨今、国内であろうと敵に対しては英語で話すのが常識だ。憎しみと憐れみの混じって凍りついたような目をした兵から、耳慣れない言語で、これから俺がどうなるのかを聞かされる。理解は薄いだろうが、だいたい買い手を探す時間がいるから待っていろみたいなことを言われたと思う。あとは悪態とか侮蔑とかか。
 俺を黙ってにらんでいたやつらもやがて去って、俺は暗闇に取り残される。
 その時――聞き覚えのある、ここで聞こえてはいけないはずの声が、耳を打った。


2017年11月15日

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