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見上げた空のパラドックス
3 ―side Higure―

 震えが止まらない。青ざめているのが自分でもわかる。ここまで動揺したことなど、死んでからこの方あったろうか。背筋が冷えたような感覚が拭えない。なあ誉めてくれよ、この程度で済んでるんだ。捻れ切れそうな恐怖に身をさらしただけで、俺は発狂しなかった。
 ターゲットが金桐町に向かっているという情報を掴んだのはだいぶ前で、俺は数日前からそこに潜伏し、念入りに武装を整えていた。本部に指示を仰いだとき、何が起こるかはわからないが普通の人間なら絶対に死ぬから相応の準備をしておけと言われたからだ。俺の不死はそういうところに使える。そのためにこの任が課された。こちらはたまったものではないが、仕方がない。そう腹を決めてこの事件に臨んだはずだった。
 嗅覚はすでにもはや麻痺している。だが事件発生直後はきつかった。得体の知れない化学兵器をばら蒔かれただけならまだいい。問題は、それらを吸った町民のほぼ全員が、視界に入ったヒトを見境なく殺しだしたことにある。ここ数日で見たこの町は決して地域が不仲ということはなく、むしろ結束して暮らしていたように思ったのだが、とにかく突然皆が皆殺しをはじめたのだから、しばらく現実が理解できなかった。できも趣味も悪い映画を見た気分だ。皆が各々武器を取り、昨日までは笑顔を向けていた家族や友人に降り下ろし、わざわざ死んだことを確認して次に移る。淡々と。極めつけは、誰も俺の存在に気づかない。誰も俺をヒトと認識していない。止めに入っても言葉をかけても一切反応されなかった。
 悪夢だ。きっともう醒めない。
 皆は、殺しながらある一点へ向かっていた。町の中央に位置する広場だ。日頃出店で賑わっていたそこに俺がたどり着くと、ただ、ただ地獄絵図が横たわっていた。思い出したくもない。おそらく、軍に属する者のうちでもあれほどの光景を目にした経験を持つものは少数だろう。ひどかった。そして、生き残っているあらかたの町民が集まったかと思われたとき、誰かが発砲した。なにが起きたかは詳しくは知れないが、ヒトの山は四方八方へ飛散し、一瞬で町が焔に包まれた。俺だけが生きて、無傷でそれを見ていた。
 あれはなんだった? 命からがら身一つで町を逃げ出した今も理解できない。ヒトがヒトを殺した。ヒトが死んだ。燃えた。耐え難い臭いがまだ残っている。その事実だけが脳裏にこびりついてまともな思考ができない。服の焦げ目が増えすぎて気持ちが悪い。素肌に冷たい風が舞い込む。寒い。
 金桐町は終わった。あの町はもう駄目だ。あの町の周辺に近づくことさえ危険極まる。あの毒を吸ってはいけない。ヒトが壊れる。どうして? どうしてそんなことができる? 誰が?

「…………誰が、って。決まってんじゃねえか……」

 俺の追っているターゲットは薬に関する知識量が異常だ。どこか外国に、薬で人の精神を調整する技術が確立されているという。そのデータを幼くして特諜に拾ってきたのが彼だ。その技術を“実験”に応用したのもまた彼だ。それほどの奴なのだから、不思議なことなんてなにもない。
 何が起こるかわからない。ただし、普通の人間なら絶対に死ぬ。
 そういうことか、くそが。
 初任で彼の調査をはじめて数ヵ月になる。ようやく、彼の人物像が、いや、恐ろしさが垣間見えたような気がした。それと同時に、途方もなく、殺意がわいてくる。慌てて考えないようにする。俺は人を殺さない。

「どう、する……歩けるか……ちかくに、町……ないよなぁ……」

 まだ声が震えている。
 誰でもいいから、なんでもない顔をして、俺の隣に現れてくれないか。なに震えてんだ、だっせぇ、そう笑ってはくれないか。一人、広場の光景をぐるぐる頭に巡らせながら、遠くめらめら燃える町を眺めながら、寂れた荒野にたたずんで風に吹かれるのは、つらい。今の俺はいつになく弱い。誰かに守られたい。青空に会いたい。いや、会いたくない。こんな情けない姿をさらしたくない。
 ひとりだ。ここはどこまで行っても無人だ。生き残ったやつなんていたのか。いるわけがないだろ。なあ。
 いつもと同じだ。俺はずっとこうだった。大丈夫。誰よりも慣れている。ただ気にしなければいい。それで何も思い悩まず済む。落ち着け。落ち着け。落ち着け。

「……歩くんだよ! 俺っ!」

 吠える。こういうときは、できないことにでも挑め。そうすれば他に気をとられる余裕なんて失せてくれるのだ。ずっとそうやって俺はさまざまなことに挑んできた。やり過ぎて吐くくらい遠くまで無意味に走ってみたり、無意味に夜通し勉強してみたり、やがて虚無感に駆られて何も手につかなくなってぼんやりと布団の上で過ごしてみたりした。成績は下げちゃならない。身体は壊しちゃならない。できすぎてもいけない。目立たない奴でいなきゃいけない。だから積み重ねれば熟練するだろう技術にはほとんど手を出さなかった。毎日嫌でもやる必要があった料理については仕方がないか。だがその程度だ、その程度の奴だ、俺は。なにかにつけて立派に思い悩めるほどごたいそうな人間ができあがってはいない。でき損ないだからこそ、なんの真似だってできた。
 軍人の真似はいったんやめてやる。制服も着ていないし、銃も持っていない。俺は何だ。当たり前に俺だ。ああそうだ、科学的に言えば見知らぬ誰かと海間日暮の複合体らしいが、そんなことはどうでもよくて。俺とは、ここに取り残されたあるひとつの有機物でしかない。そしてそれは俺を定義付けるにじゅうぶんで、それがわかれば今は歩くしかないとすぐ腹が据わった。俺のやるべきこともできることも、たったそれだけ。
 足を進めていると、寒さも和らぎ、ようやく気分が凪いでくる。吐き気を催すひどいにおいは向こう一週間はとれないだろうと考える。いやになってとりあえず遠くを見渡す。荒野には点々と爆撃の跡。それから、とうに崩れた家の基礎とか、いやなにおいのする土とか、そんなものばかり転がっていた。
 俺は日本の殆どが穴だらけの更地になった経緯を何も知らない。皆が思い出したくないと語ってくれないからだ。ただひとり口を開いた准尉が「ここまで世間が落ち着くのには、何年もかかったんだ」とだけ言った。とても落ち着いているとは言い難いと俺にしては思うが、生き残った町がそれぞれに自治を始め、東京都心部だけが本来の形を残している今を、多くが安定したと言うのだ。金桐町で、ようやくその意味を理解したと思っていた。あの町はよかった。俺がこの世界で見たどこよりも活気があって、警戒はみなが解かないにしても、ひとの暖かさみたいなものが町全体から感じられた。それが、あんな。
 足の動きだけに意識を集中し、沸き上がるものをこらえた。こらえきれずに、震える吐息だけが零れた。
 そこで、風の音以外には無音だった世界に混じるノイズに気がつく。俺は近くの穴に転がり込んで周囲を警戒する。近づくのは車だった。まるで俺がここにいることを知っているかのようにまっすぐこちらに向かってくる。


2017年11月11日

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