[携帯モード] [URL送信]

見上げた空のパラドックス
0.5 -side Higure-

 だいぶ経ってから、俺は彼の背に歩みより、じゅうぶんに声の届くところまで来て、何故ですかと問うた。わざと当たったんでしょう、と。

「君がプロトタイプと一緒だったからさ」
「プロトタイプって?」
「彼女。聞いたんでしょ、実験のこと。まあ都合はよかったんだ。この試験が終わり次第、君が彼女の後進になることに決まってた。聞いたからにはすぐにでも、ね」

 いつもと変わらぬのんびりとした口調で言うものだからこの人らしい。俺は動揺する暇さえ与えてはもらえずに立ち尽くす。星空を背負った彼が、へらへらとして、それなのに重苦しい厳かな言葉を続ける。

「なあ、君は、今の自分が海間日暮であると証明できるか?」
「いきなり哲学ですか? ……できます。他に俺を名乗る何者かが現れず、俺を俺と認識する誰かがいるうちは俺が海間日暮です」
「君の定義には主観性がないな」
「……俺が俺を俺だと思う所以、って話ですか?」
「そうそう。どう?」

 どう、と問われましても。

「真剣に答えなくちゃダメですか、この質問。准尉、わかってますよね」
「答えさせてみたいんだよ」
「……好きな女の子を好きかどうかです。もし俺が恋をやめたら、そいつは俺じゃないと思ってます」
「ぶっ」

 彼は案の定こらえきれずに笑いやがった。背丈ばっかり高くてもどうせ頭の中身は中学生だよ、悪いか。いやまあ俺の故郷じゃ平均だったが。
 ひとしきり腹を抱えて笑った彼をちょっと睨んでいると、彼は首を振って。

「いやあごめん。そうだな。君はそれでこそ君だ。僕もそう思う。本当だ。恋はいいよな。恋をする人はすごく強い力を持ってる。君がそうだろう」
「笑いながらですが、誉めてます?」
「もちろん。君なら平気だ。海間、君はプロトタイプみたいに自分を失って迷うことはないだろう」
「……実験って、なんなんです」

 前置きの長い彼の話に付き合わされた俺は、あらゆる真実を前にして生きるその人の口から真実を聞いた。彼らの語った実験とは、そう、ひどく主観的に結果論を言えば、アイデンティティの喪失か歪曲をもたらすものだ。拒めないのかと問うと、彼は拒んでもいいと言った。ただし君に未来はなくなるよと。どう聞いても拒めないのと同義だった。
 その夜が明けた朝に、俺は早々“実験”に身をさらすこととなる。投薬され、のたうち回って自我を忘れ、自我が帰ってくるころには数日が経っていて、目の前にはあの麻酔銃を腰に下げたままの死体と薬の容器と寝ていたベッドと朝陽があった。まさか殺したわけじゃないよなと確認すると、違うから安心しろと言われた。
 そのさらに翌日から慌ただしく俺の初任務がはじまる。内容は、二年前に逃亡した元特諜員の少年の動向を長期にわたって調べ、できることなら接触し、情報を持ち帰ること。そんなハイレベルな初陣は無茶だとも訴えたが、被験者だから、の一言で片付けられ面食らった。被験者だからなんでもできるとでも思っているようだ。アホか。
 車を支給され、荒野を走るのになにを宛にするのやらどこそこに町があるから向かえと言われ、さんざん迷って辿り着いた。途中に熱波が国を襲って人がバタバタ死んだりもしたが、なんとか暮らしを整えることもできた。熱波が過ぎ去り世界が急に涼しくなったころ、人の少ない時世なのに、あるひとつの噂が爆発的に広がり、辺鄙なその町にも伝わってきた。

 『市場の一角が燃えた』、と。

 市場とは、どうやら国際的に盛んらしい異能者売買とやらの拠点となる都市を指す言葉だと説明を受けた。正直言ってなんだかわからないが、つまりでかい町ででかい火災があったらしいということは理解した。異能者の暴走でもなければあり得ない規模の大火災が、最も異能者の扱いに長ける輩の集う場で起きたのだと。
 俺の反応は、ふうん、で終わった。
 火災と言ったら思い出すことは多々あって、感傷に浸りはすれども、遠い都市の話だ。
 俺は、ただ、なんとなく青空がそこにいなかったことを祈りながら任務に勤しんだ。

 そんな、涼しい八月から話をしよう。


2017年10月21日

▲  ▼
[戻る]