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見上げた空のパラドックス
0.4 -side Higure-

 荒野に出て、星とクレーターに挟まれた空間にたゆたいながら、久本はずっと箱のすみに小さくなって黙っていた。人と話すのが苦手だと全身で訴えている彼女に話しかけるほど俺も鬼ではなく、空気を損なわぬようぼんやりと星を眺めた。どこへ行くのかは知らない。どこにも行かないで漂い帰るのかもしれない。朝までに帰れるならどちらでもいいし、正直安堵していた。今の特諜は俺にとって危険地帯で、気を抜けず、疲れていたから。こうしてのんびりとしていられるのは三日間のうち今だけだろう。
 箱を操りながら久本が懺悔するように細く息をつく。

「ルールがあるから、逸脱したい、なんて、私が、おかしいのは……わかっているんです」
「え。……お言葉ですが、それは、普通のことでは?」
「いえ……私にとっては、違いました。従順だった、んです、私」
「それが変わってしまったと?」
「ええ。だから、これは……私ではないんです」

 つぶやいて、久本はまた下ばかり見た。黒い穴に飲まれそうになりながら、彼女はこう言葉を続ける。俺は首を傾ぐ。

「あの、……一課でも、“実験”をやるって、ほんとうですか……?」
「“実験”?」
「あっ……ご、ごめんなさい。聞かなかったことにしてください! お願いします!」
「了解です。大丈夫ですよ」

 必死に聞かなかったことにしてくれと頭を下げた彼女の様子から、その一言が何らかの機密事項なのだろうと知る。かといって、ただ実験と言われても、なんのことやら見当もつかない。どうせ誰に話しもしないので、二文字を知っていたところで問題にはならないだろう。
 久本は、その後はまた黙って数十分ほど何もない枯野をさ迷い、やがて屋上へ箱を戻すべく飛ばした。こちらを見ることのない目は目的を持たず淀んでいるように見えて、俺の口は勝手に余計なことを訊く。

「何が見えますか?」
「えっ?」
「ずっと下をご覧なので」
「あ、……えっと、いえ、何もないです、けど……」

 慌てた彼女は気まずそうにしながら、下を見るのをやめた。俺はひとりで安堵して、共に前方を見る。ずっと遠くに見えていた特諜本部が近づき、徐々に大きさを増す。そして、それが見えて、俺たちを乗せた箱に急ブレーキがかかった。久本が、困った顔をして立ち上がる。俺も顔を険しくした。
 俺たちが飛び立ったその屋上に、人がいるのだ。俺にはそれが誰かよくわかっていて、ああ、これはまずったな、いや、チャンスなのかなと呑気に考える。うん、どちらにせよ処罰は免れなさそうだから、それは俺が被ろう。そういうことでチャラだ。ただ、今はこのチャンスをなんとしても使うしかない。

「上等兵。ご協力をお願いしたく」
「なんのですか?」
「はい。私、実はいま着任試験中で、あちらの方に一発当てると合格ということになります。あの人を狙撃するので箱を開けていただきたいのです」
「え、まって、それ絶対、私の不正がばれ……」
「それについては申し訳なく」

 話しながら背にあった銃を両手に持ちかえ、まずサプレッサーを装着して、安全装置を外す。グリップをぐいと握ってバレルを引き、ハンマーを叩き起こす。

「けど大丈夫です。この程度の不正をいちいち気にする方ではいらっしゃいません」
「え、そ、それはそれで、問題ですけど……」
「よろしくお願いします」

 ガラスの板に立って銃身を持ち上げ、狙いを定める。有無を言わせぬ様子の俺に久本は小さくわかりましたと言って、次の瞬間、箱の中に夜風が舞い込んでくる。俺はすぐに引き金を引いた。抑えられた射撃音は小さく箱の中にわだかまり、ゴムの弾丸が遠く飛んでゆく。肩に痺れが来るのを無視して、当たったか、当たらないか、じっと目を凝らした。
 そして銃身を下ろし、息をつく。
 久本はすぐに箱を閉じ、諦めたような顔でまっすぐ前方に向かい始めた。

「上等兵は直接二課にお帰りください。私は敷地内なら適当に下ろしていただいて構いません」
「え、でも……」
「ご協力いただきましたし、万一の時の責任は私が負いますので」
「……じゃあ……よろしくお願いします。それでは、失礼します」

 久本が言うと、箱は二つに分かれ、俺達は切り離されて滑空する。お互いがお互いを視認できなくなるのはすぐだった。しかし、能力の使用による感覚だけを頼りに、俺を屋上へ、彼女を二課の宿舎裏へ、互いが互いを安全に送り届ける。そのあとは、能力による繋がりも途切れ、完全に別れが済んで、俺はひとりになる。
 そうして先程まで居座っていた屋上の真ん中に降りて、二人ぶんの力が解けたとき、俺に背を向けて柵のそばに立っていた彼が、振り返ることなく口を開いた。こともなげに、きょうは星がきれいに見えるなあ、と。独り言のように聞こえて、無性に邪魔をしたくないと感じる。ええ、そう思います。思考のみで返した。


2017年10月21日

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