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見上げた空のパラドックス
55 ―side Chitose―

「殴っていいか」

 組織に帰って開口一番言われたのがそれで、僕は即答で嫌だよと答えた。言った相手というのは見知った医師の少年なのだが、彼はいつになく怒ったような眼差しで僕を睨む。その怒りをなす半分以上の感情が心配なのだろうから、僕は文句も言わない。ただその横を通り抜けてゆこうとした。が、背後からがっしりと腕を捕まれ、さすがに逃げられないかと苦笑をもらす。
 まだ午前中なのにも関わらず涼しさのすの字もない生暖かい風が、傷みに染みた。それすら見逃さぬとでも言うくらいの視線が、背中に突き刺さっている。

「仮にも療養中の身で朝っぱらから俺に無断で脱走しやがったうえどこで何をしていたのか10秒以内に答えろ」

 こいつ、マジ怒ってる。
 やれやれと息をつく間もないようだ。

「和美の処分をしてきた。町に出ていた」
「干渉は」
「してないよ」
「おまえが働く必要はあった?」
「あった。遠方と取引があってね」
「……そうかよ」

 吐き捨てられ、話は終わったが、捕まれた腕は解放されなかった。そのままずるずると医務室まで連れられ、食事を摂るとともに「せめて今日中は絶対安静!」と厳命される。しぶしぶ言われた通りに大人しくしようと頷いた僕は、そこで数日ぶりに彼女の姿を目にした。
 白い長髪を枕の上に広げた彼女は、生気のない顔で眠っていた。

「……久本ちゃん、回復は、かなり早い」
「うん」
「もう歩き回れるようになってる。驚異的だよ。そのぶん疲れたんじゃねえか……今日は寝てるかも」
「そうだね。それがいい」

 彼女と顔を合わせれば、長い話を持ちかけられそうで、僕は彼女が今日中は大人しくしてくれることを望んだ。今はまだ、言えないことが多い。圭には、まだ、受け入れられないことだから。
 どう説得したものだろうか。彼女に最も負担がかからない形での情報開示をするには、何を起こして、どんな時期に伝えるべきか。それも、残りわずかの期間のなかで。

「どうした千年、辛気くさい顔して」
「つらいさ。暑いからな」
「違いねえや。でもさ、お前、彼女になに吹き込んだ? なんか気に病んでるようだった」
「ああ、うん、プロポーズした」
「……っ」

 もうすぐ死ぬくせに?
 彼は冗談でもそう言えるほど強くはなかった。僕の台詞を笑うこともできず硬直した彼に、僕はうなづいて、

「まあ甚だ冗談だが。似たようなことは言ったと思う」
「……わかってんのか、久本ちゃんは」
「あらかたね」
「重いよ。そりゃ、最悪だ」
「そうなんだよ。怖いなあ。僕を死なせたくないから嫌だとか言われるのがいちばん困る」

 眠る彼女は相変わらず無防備で無垢な顔をしている。いつにもよりまして青白い肌を目にすると、呼吸しているのかどうかと確かめたくなってしまう。大丈夫、彼女は生きている。疲労のせいか落ち着かない自分にそう言い聞かせて目を背ける。
 圭なら、大丈夫――だがふみは許してくれるだろうか。数多の犠牲と引き換えに君達を救う。それも、一瞬だけの幸福のために。それをふみはどう受け取るだろう。
 僕にとっての最善に、彼女が納得してくれなければ、この計画は破綻だ。破綻はするが、僕もその他の犠牲者も、もう手遅れだ。
 拒絶を選んでくれても構わないが。
 後味が悪くなりすぎる。
 それは僕には少しつらい。

「僕に思い入れはない方がいい。君にも彼女にも」
「勝手なことばっか言いやがる」
「諦めろ」
「どうしようもないのか。回避できないのか、お前の死」
「できるよ? 他に同等の影響力を持つ人間を殺せば。例えば……、灰野とかね」
「……」
「世界はそういうふうにできてる」

 急な疲労を感じた。
 ずっと気を張っていたからか。秘めていたことをうっかり話してしまったからか。気が抜けたのだと思う。解明されていない真理を人に話してはいけない。それすら守れない僕を、いったい誰が糾弾してくれるのだろう。誰もいないに違いなかった。その虚無感が思考を塗りつぶして、真っ暗に押し込めてゆく。意識が薄れる。その狭間に、どろどろとした黒い沼地を通ってゆく。
 誰か僕を叱ってくれ。自分は手を汚さない位置にいて、間接的に人を殺しておいて、それを正義だと言い張る僕を――赦さないと言ってくれ。
 こんな孤独が誰にわかるだろう。誰も僕を叱ってくれないから、僕だけが堕落して取り残される。誰にわかるだろう。僕には皆のすべてがわかるのに。ああ、なんて不公平。

「千年っ。どうした」
「……重い……頭が」
「あんだけ働きゃ当たり前だっ。黙って寝てろ」
「あぁ、そうする……」

 嘆くな、僕。感知系であることを嘆いてはいけない。それは彼の存在の、ひいては僕の生きざまの否定となってしまう。否定すべきではない。だが、それでも、本物なのだ。運命を恨む心も、弱い自分への憤りと諦念も、彼へのあこがれも。すべてが本物で、すべてが僕なのだ。
 どうしろって言うんだ。やるべきことをする。やりたいことをする。僕はどちらもできているはずで、じゅうぶん報われているはずで、それなのに消えないこの虚無感は何者だろう。多くの違反をおかしながら生きて、幸福にもたどり着けたはずだ。この期に及んで僕はなにがしたいのだろう。

(駄目だ……意識が、重い……)

 闇の奥深くへ、引きずり込まれる。


2018年2月25日

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