見上げた空のパラドックス
54 ―side Sora―
「圭を……助けたいと思っているんだ」
いつもと違う応接間のような空間で、高いだろうソファのひとつに腰を落ち着け、彼が言った。
「久本さんと、やっぱり血縁だったんですね」
「姉だ。……幼いときは、ずっと、私を助けてくれた……」
苦そうに語る彼はもう研究者然とはしていない。ただ一人の少年といった風で、光のある目で足元ばかりをぐるぐると見つめている。私もつられてうつむいてしまう。
驚いたことにこの部屋の設備は完璧すぎるほど私のいた時代に近い。つまり貧相さを感じさせる要素が一切ない。四角いちゃぶ台に、無地の絨毯、一対のソファ。壁際の薬棚だけがここを彼の家だと定義付けている。そんな部屋の足元はこざっぱりしたフローリングで、懐かしさが込み上げた。
「死ぬんだ」
脈絡のない言葉が床にこつんと落ちた。私は理解するまで少しかけて、聞き返す。
「久本さんが?」
「あぁ。……私たちはもうすぐ死ぬようになっている。私はまだ少しもつが。圭は、もう駄目だ」
「……“ようになっている”、ですか」
「同化が防げたら一番だった。だが圭はとっくに……」
彼は言葉に詰まり、視線を揺らす。再び泣き出しそうな雰囲気で、私はあわてて問いを送った。
「同化って、なんですか」
「他人の魂を自分に取り込むことだ」
「魂……?」
「記憶や意思と言い換えてもいい。冰がおまえにやったのと似たような感じだろう。そのもっと大規模なやつだ。あれは、脳に負担がかかるんだ。あの実験を受けると、一気に短命になる」
「え、えっと」
「他人の人格が自分の思考に割り込んでくる。……その他人の異能を、自分のものとして使うことも可能だ」
同化。その言葉の意味を考えた。
他者と自分が混ざる。そのイメージはなかなかつかめないし、久本さんが他者と混ざった存在だったと言われてもまったくピンとこない。
しかし、異能を取り込むと聞くと嫌な予感がした。
そんな現象があるのなら、殲滅派がほうっておくわけがない。
「これを、日本軍が国家プロジェクトとして研究しているんだ。異能者殲滅の効果的な方法として」
「え? でも日本は擁護派なんじゃ」
「建前だ。異能者をまとめて管理するための」
「……なるほど」
狂信者。
その言葉が頭に過り、私は否定する。
ようは多数決だ。信じる人の多い事柄は、存在するものとして扱われる。たとえ虚偽であってもそうなのだ。神様はいると信じる人にとっては本当にいる。いないと信じる人にとっては本当にいない。簡単なことだ。
「私たちがプロジェクトの生け贄だ。異能者が異能者を取り込み続ければ、駆除は楽になるだろう。殺す者がひとりで済むどころか、手を下すまでもなく勝手に死んでくれる」
「……あなたも?」
「ああ。取り込んだ。……さっき埋めた少女も、いまは、私だ」
「え」
「特殊な殺し方がある。それをすれば、取り込める。……だから、金桐町も私がやったんだ」
「ま、待ってください」
彼の独白を遮り、私は自らの驚きを鎮めるに徹した。
ついさっき殺された和美さんが、いまは彼だって? それもショッキングだけれど――、金桐町の事件、誰がやったって? 彼が? 嘘だ。だって金桐町では久本さんも死にかけたんだぞ。
「うそ……金桐町、本当にあなたが?」
「本当だ。……おまえも圭も危ない目に遇わせたと聞いている。本当に、軽率なことをした……」
信じられない気持ちの高ぶりに任せて私は思わず立ち上がる。けれど、昂りが持続したのもそこまでで、なにもできずに黙って座り直した。
「数百はいるんだ。私のなかに。だから、名前を教えなかった。私は、もう晶が誰だかわからない」
寂しそうに紡いだ彼がようやく顔をあげて私と目を合わせる。珍しい、光ある目に、私は不可解に陥った。彼が晶さんでなかったら、そんなにも久本さんを痛切に思う義理はないのではないか。久本さんを思って動いている以上、彼は紛れもなく晶さんなのではないか。
「……久本さんは?」
「……圭のなかには、七人いる」
「久本さんのほうが少ないのに、早死にするんですか」
「時間が違う。圭は、もう七年ああしてる……私はまだ数ヵ月だ」
聞きたいことが山ほどあるのを脇に置いて聞くのも、限度が出てきた。たとえば、あなたは日本軍を脱走したのではないですか、とか。どうしてそんなに数が違うんですか、とか。けれど、彼は有無を言わせずに話を押し進める。
「高瀬。圭がおまえを取り込めたら、ベストなんだ」
「え」
「おまえ自身は死ぬことになる。そのうえ、圭は助かる。だから」
青に見つめられ、思考が止まる。
私は覚えている。彼が私に対して死ねるはずだと言ってくれた瞬間の、どうしようもない希望のことを。こんな私が救われてしまった、そんな幸福な瞬間のことを。死を遠く仰いだとき胸に轟く憧憬のことを。
死にたい。
どく、と心臓がうるさくなる。
死にたい。死ななきゃ。私は。
「それって……久本さんを不死にしようということですか」
「……ああ」
死ねないという、呪いの押し付け――。
かすかな罪悪感と、大きな期待がせめぎあって、後者が勝った。一度は止まった思考がフル回転をはじめる。私が死ねるということの意味をようやく理解して、その先を見はじめる。
「……大丈夫なんですか? えっと、私を取り込んだ久本さんが、この世界の私と、出会ってしまった場合。かなり危険だと思いますけど」
同じ魂がふたつ、近くにあれば、どちらかが消える。消えずともなんらかの致命的な障害が出る。それは私が前の世界でさんざん悩まされた原則だったはずだ。もし、私が久本さんに取り込まれたと仮定して、久本さんがこの世界の私と出会えば、どうなるか。
「……圭は既に、この世界のおまえを取り込んでいるが?」
「え、……えっ!?」
「冰が言ったんだ。間違いない。おまえと圭は会っても大丈夫だったんだろう」
「……え? タンマです。えーと」
深呼吸深呼吸。考えよう。久本さんは既にこの世界の私を取り込んでる? いやまてどういうことだ。私と久本さんは長く任務を共にしてきた。私があの息苦しさに襲われることはまったくなかったし、久本さんにもそんな素振りはなかった。つまりは。私はこの世界を出られない……? いや、もちろん彼の言うように順調に事が進んだとしたら私はここで死ぬのだから出る必要はまったくないか。しかしあやしくないか。本当にそんなことできるのって。あまりにも疑わしい。まず取り込むって、なんだ。取り込んだら、変化してしまうのか、理子さんの言う“魂の形”とやらは? 融合するから?
私に消える術がないのだとしたら、逆に言えば、私の存在は、この世界に認められている?
(……うそ)
そうだ。そうだよ。
今までまったく気にならなかった。
なかったのだ。
前の世界ではあんなに顕著だった――息苦しさが。
2017年7月29日 2018年2月25日
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