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見上げた空のパラドックス
52 ―side Sora―

 最近はたぶんしらふのまま毎日を過ごせている。日付が飛ばないからという理由だけれど、日に何回も寝て起きることもなくはないから、正確には違うのかもしれない。それでもあきらかに、気が狂うことが少なくなった。
 彼に問うてみた。なぜ、私への投薬をやめたんですか。彼は答える――必要がなくなったから。

「ってことは、私が記憶を取り戻すのが目的だったんですか?」
「あぁ。だが、無駄だったな。薬は歌に勝てなかった。おまえには歌がふさわしかったんだ。すまない。おまえの心にもっと寄り添うべきだった」
「あなたってきざったらしいことを素で言うから恐ろしいですよね」
「? ……そうか?」

 良く言えば天然、悪く言えば空気が読めない部類なのだ、彼は。私は苦笑して気にしないでくださいと言った。
 記憶なんて、封じるときは必死だったかもしれないけれど、取り戻してしまえばあっけないものだ。どんな辛いことがあったのかと思ったら、拍子抜けするくらい何気ない記憶の多くを、私はぼろぼろと取り落としていたのだ。私立渋野江学園1年2組。そこで誰と出逢い、何があったか。つい先日の八月十日。その日に私がなにを言ったか。そんな、とても些細なことだ。
 市場の記憶がよみがえってきた時よりも衝撃はよほど少なかった。私はいつものままで、暴れもせずただ従順に、この部屋にうずくまり続けていた。変わったのは、よく歌うようになったということだけ。

「私、どうして海間のことを遠ざけていたんでしょうか」
「さあ。……いいのか?」
「なにがです」
「ここにいて、いいのか。海間日暮を追わなくて」
「他人ですよ。ろくに話したこともありません。あなたのほうが大事です」
「……そうか」

 私は考える。
 海間はいま何を考え、どうしているのだろうか。私は彼に憎悪を吐いた。それを、彼は、どう受け取ったのか。きっと私から手を引いてくれることはないのだろうけれど。
 海間に言いたいことは、山のようにある。
 しかし、どれも死の希望を与えてくれるこの場から私を離れさせるには力及ばなかったのだ。私を連れ出したいなら殺してみせてよ。冗談でもなんでもなく、そう豪語できるのだ、私は。

「なあ」
「はい」
「今日は、客人が来る。おまえの客だ」
「へ? どなたですか」
「……私とは面識がない者だ」

 なにか複雑そうにして、彼ははぐらかすようにそう言った。しかし、彼と面識がなくて私に用がある人間と考えるとそう多くはないから、はぐらかしきれてもいない。ファリアの関係者だろうか。あるいは市場の。
 私はひとまずと身支度を整える。ぼさぼさのままだった髪をとかし、上着を着こむ。それが終わるころ、ちょうどインターホンが鳴った。彼がポケット端末を覗き込んで、玄関前の景色を確認する。そしてこちらをちらりと見て頷いた。なにやら緊張感のある様子で、私は気を引き締めて彼の背に続く。
 施錠の固い扉を押し開けると、私は緊張とはまた違う意味で身を固めた。驚いたのだ。だって、その姿。私よりずっと小さな背丈に、細い体躯。見慣れた澄んだ目がひさびさに私を見上げる。満面の笑みで。

「そらさん、お久しぶりです」
「……和美さん」

 私は呆然とした。少女の他に周囲に人影はなく、ひとりでこんなところまで来たのか、という驚きがひとつ。なぜ彼女がここに、という疑念がひとつ。元気そうでよかったなあ、という安堵がひとつ。先程の彼の緊張感はなんなのだろう、という不安がひとつ。それらが混じりあっていっそ平静で、私はそのまばゆい笑顔と対峙する。
 和美さんはまず丁寧に頭を垂れ、ゆっくりと持ち上げて、またにこりと笑んだ。意味を図りかねた私が首を傾ぐと、淀みない口調で彼女は語り出す。

「お礼を申しあげたかったのです。わたしはあなたに命を救っていただいたのですから。でも、あなたはそのまま行ってしまって……、それが心残りだったのです」
「……そのためだけに、こんなところまで?」
「ええ。そらさん。ありがとうございました。わたしと出逢っていただいて。ほんとうに、わたしは救われました」

 澄んだ目で、澄んだ声で、そんなことを言い出すから、すべてを察した私は息を呑む。まるで遺言のようだ、と感じたのはきっと勘違いではまったくない。だってほら、カチ、と撃鉄の音がした。ねえ、和美さん。あなたの最期の心残りは、私なんかのことでよかったんですか。そんな笑顔で私を見ないでよ。もっと怯えた顔で私の背後を見ればいいのに、どうして。
 微かな銃声が一つ、背後から届き、目前の小さな額の真ん中に風穴が開く。咄嗟に飛び退いて返り血をかわし、振り返ると、煙をあげる拳銃を黙って構える彼の姿はすぐ近くにある。彼は私には目もくれず、床に転がる肉塊の処理にかかった。
 呆気なさすぎる光景に言葉を失う。純粋に、ショックだった。私なんかにちいさな言葉ひとつを渡すためだけに、彼女はここまで死にに来た。その事実が私を揺るがす。めまいがする。うつむいた先に、見慣れた血溜まりがひろがってくる。
 ああ、まったく、都合が良いな私は。見知らぬ人の死にはこれっぽっちも揺らがないくせに。いつもそうだ。生かすと決めた人は生かさなければ気が済まず、それ以外ならどうなっても構わない。今更だが、そんな理不尽なことがあるだろうか。私に人の命を救い、あるいは摘み取る権利などないだろうに。
 これは私のエゴだ。

「どうして殺したんですか」
「そういう取引だったんだ。高瀬には会わせてもいい。ただし生きては返さない。彼女はそれを飲んだ」
「……和美さんが殺されなければならなかった理由は、なんですか」
「異能者だからだ。……異能者だから、だ」

 染みになる前にせっせと血液を拭き取り、遺体を袋に詰めながら、彼はそう繰り返した。私はしばらく血だまりを眺めて、やがて黙って作業を手伝うことにする。人だったモノを、機械的に片付ける。
 彼が人を殺す理由――そんなの、私が尋ねることではない。私は彼の下で何も考えずにいればいい。記憶や感情がどうであれ、私はそれを忘れてはいけないから。


2017年8月29日 2018年2月20日

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