見上げた空のパラドックス
63 ―side Kei―

 最後の投影が終わって、結晶の海がざわめいて、そのすぐ隣で冰がうずくまっていた。
 ふみの力がここでは全能だ。表ではボロボロの彼の身体もここでは健康そのもの。それでも気分はあまりよくないらしく、私のほうを見ようともしない。
 当然だ。私は醜い。プロトタイプとなってからの私は自制が効いたからよかったけれど、久本圭という一個人は、不安定であり、狂信的であり、見るに堪えない人間だ。臆病だから。人間を信じられない人間だから。なんだってした。相手を信じるための根拠を作り出すためならばなんだって。12年間生きた私が見つけたその最も確実な方法は、ナイフを突き刺すことだった。それだけが導いた惨事だ。弟のことなんか、きっとどうでもよかった。ただ私は信じたかった。私が私の弟への愛を信じているということを。
 馬鹿だね私は。
 愛なんか信じてない。信じられる日なんて来ないよ。だって私というのはそういう奴だ。これまでもこれからも、たぶんどの世界でも。

「……私、こんな人間ですよ」
「知ってる」
「それでも助けるんですか」
「当たり前でしょ」
「何故」
「君が人間だからさ」
「意味、わからないです」

 私はこれから独りになる。
 この海も、きっと消えてしまう。
 ふみが、皆がいなくなったら、過去を忘れて、人の心が見えなくなってしまったら、私はまたあんな過ちを繰り返す人間になってしまうのだろうか。いや、戻ってしまうのだろうか。
 彼はそれを望むのだろうか。

「冰さん」
「名前」
「へ?」
「そろそろ名前で呼んでくれてもいいと思うんだよね」
「……」

 それ、いま言う必要あるの?

「あるよ。能力の使用はモチベーションが大問題だ」
「……千年さん」
「いや呼び捨てで」
「注文が多いです、千年」

 ぎしぎしと結晶たちが軋んで、耳障りな音を立てる。美しかった色とりどりの輝きが、見る間に黒ずみ、塵と化して散ってゆく。あっと言う間に世界は黒ずんだ粉塵に覆われ、水面がどこかもとうとうわからなくなる。
 私の中の皆が死んでゆく。ちいさな心象風景という名の世界が滅びを迎える。私の意識を介してふみに接続した“指令図”は、着実に実行されつつある。結局のところ計画はつつがなく進んでいた。彼は私に対話を許してはくれなかったということだ。最小限の、極力私に負担のかからない簡素な指令図のみを送り込んできた。優しさも過ぎれば拒絶だ。私は悲しみに暮れる。彼はどうしても孤独を選ぶ。私には、為す術はないのか。

「千年、あなたを知りたいです。わからないのは、苦しいんです」
「僕も苦しい。何も言えないのは」
「だったら!」
「それでいいでしょ。二人一緒に苦しいくらいでちょうどいい」

 冷たい声で言ったけれど、彼の目は裏腹に強く熱を秘めていた。滅びゆく世界の中心にふたり。そういう錯覚に陥るには演出の懲りすぎた舞台だ。ご丁寧なセッティングに思わず笑えてくる。ふみの馬鹿。こんな時に姿も見せないでいて。目覚めたら存分に文句を言ってやる。それから感謝と、謝罪と、別れを。

「お互いが食い違って、一緒に苦しいくらいで、恋なんだよ」

 目だけは逸らさず、しかし苦しそうに告げた。きざったらしい台詞を、こざっぱりした普段通りの口調で。

「……そういう台詞、似合わないです」
「いちおう告白してるんだが」
「わかりやすく言ってください」
「好き。だけど、僕は変わる気はないよ。プランも死に場所も僕が決めた通りにする」
「神様だから?」
「人間だからさ。マジの神様は、人間にたいした興味は持ってないんだよ。いっつも同じような群像劇で飽き飽き失望してるらしい」

 世界が色を失う。
 美しくない、黒くもやもやした煙だけがすべてを満たす。
 本来はこういうものなのだ。心象風景。私にとっての世界の形であり、私自身の心の形。

「僕は、神様って奴の、人間への興味を取り戻してやろうと思ってる。それが僕のいちばんの目的だ」
「比喩、ですか。……それとも、いるんですか、神様」
「さあ、どっちかな」

 彼がひさびさの曖昧な笑みを見せたから、私はやけに安心して、孤独へ還りゆく世界に身を委ねた。彼から手を離すと、もうその姿は煙に紛れてまったく見えなくなってしまう。誰もいない、誰もいなくなる、私はこんな場所でただひとり、煙を吸い込むまいと息を止めて立ち尽くす。
 すぐに孤独が私を襲う。それに伴う狂気が帰ってこようとする。私の中の皆が消えて、空洞化したその隙間にここぞとばかりに忍び寄る。来るな、来るな。私はもう快楽殺しは卒業したよ。殺さなくていい、信じられなくたっていいんだよ。みんなで独りで、みんなで一緒に苦しむくらいで、ちょうどいいんだ。それが生きるってことだ。だから寄ってくるな、私の不安という名の化け物。

「けーい!」

 明るい声が耳を打つ。びくりとして振り向くと、眩しいほどの笑顔がひとつ。

「……あ、ふみ……」
「違うよ。わたしは“プロトタイプ”だよ、圭」
「……」
「だってわたしの身体の中に、ここで過ごした二年間の記憶は存在しないんだもの。わたしは、つぎ目覚めたら、灰野が好きでちーちゃんの幼なじみなだけの、ただの片山ふみに戻るんだよ。圭のことは、ぜんぜん知らないんだよ」

 笑顔のままそんなことを言って、そしていつかのように、彼女はそのまま泣き出した。私はそうか、と冷めた頭で考える。私と彼女が半身であったという事実さえ、この世界の色と同じく消えてゆくことになるのか。

「よく働いてくれたね。本当は私じゃないのに、私のために。ありがとう、プロトタイプ」
「らしくないこと言わないでよっ!」
「じゃあ……、さんざん迷惑かけてくれたね。やっと私は自由になれる。……早く行って。あと、泣くのはよして」

 彼女は煙で黒ずんでしまった顔をぐいと拭って頷く。さんざん私に泣きついてきた彼女にも、意地というやつはあるらしい。普段通りの笑顔。ちょっと悪巧みが好きな少女の笑顔。そういう顔で、私の両手を包み込んで言い放つ。

「ばいばい、お姉ちゃん!」

 手が離れると、よりいっそう濃くなった煙があっけなく彼女の姿を飲み込んだ。足音ひとつなく彼女は消える。さすがプロだなあ、とひとつ苦笑して、私は今度こそひとりになる。
 ああ、さんざんだ。千年には振られてしまったし。妹ぶった鬱陶しい少女も消えていったし。思いがけず寂しくてたまらない。私の中には醜い自我がひとつだけ転がっている。他はまったくの空っぽで寒風さえ吹き込んではくれない。苦しい、苦しい。この苦しさが消える日は来ない。誰にも一生訪れないのだ。それでこそ、人間だ。
 もう眠ろう、こんなところで乾いた煙に水分を与えてやるより、どぶのような世界にふさわしく地にへばって眠ろう。
 さあ、愛する者から拒まれ尽くした私の現実が待っている。


2018年3月26日

▲  ▼
[戻る]