[携帯モード] [URL送信]

見上げた空のパラドックス
50 ―side Kei―

 いつもと変わらぬ結晶の水底を、赤毛の少女が歩く。
 つまり私。
 ここ数日はずっと記憶の結晶を漁っていたはずが、私は気づけばいつのまにか、他者を探し歩いていた。主にふみを。精神の確立性がもうかなり薄くなっているらしくて、ふみ以外の人に会うことはかなり希だ。年月が経てば、わたしたちの精神の同化は勝手に進む。ふみはなかなか頑固だから、ぜんぜんひとりにはなれないのだけど。
 遠く上方の水面を仰ぐと、過去の日の怒号が海を揺るがした。結晶たちがざわめいて、甲高い音を幾重にも響かせる。醜い臆病と劣情の発露。あれらは、いまはもう私の中にある。

「はじめて殴られたのは五歳の誕生日だった。それまでは愛されて育ってたの。そうしなければ心理的発達に問題が出るから、五歳になるまでは人工異能者もしっかり愛さなきゃならない。そういう決まりになっていたらしいの」

 両親の顔は覚えている。血色の悪い、くたびれ果てた表情で、それでも幼かった私を腕に抱いてくれた暖かさ。それだけは、本物だったんだよ。たとえ私が愛されていなくても。晶を生んだ直後に、とうとう耐えきれなくなってしまった二人は、私たちの前から姿を消した。だから、私が、両親の代わりに晶へ温もりを与えなくちゃならないって思ったの。
 それがすべての始まりで――
 そんなことをしなければ――
 晶に愛着なんか持たなければ、私はきっともっと普通に育って――
 こんな思いをしなくても済んだのかもしれない。

「はじめて犯されたとき、こんな苦しみがこの世にあるんだ、って。はじめて、死にたいって思った。晶のこともぜんぶ投げ出して死んでしまいたいって」

 ――それが潔く実行できていれば、どんな苦しみもなくて済んだのに。

「できなかったの。晶の顔を見たら、ああ、守らなきゃって。呪いにとりつかれていたみたいに。もし晶が被害に遭ったらと思うと、私はどうなってもいいから守らなきゃって」

 後悔ばかりの人生を送ったから、記憶をたどればたどるほど、口の端から毒素が流れ出て、美しき色とりどりの結晶を汚してゆく。
 私の記憶には波があった。明瞭かそうでないかは時期による。それはストレスに比例するかもしれない。

「私……晶を、憎んでいるのかなあ」

 独り言だ。
 誰も気にはとめない。
 少なくともいままで、私の独り言に誰かが口を出したことはなかった。
 けれど。

「けーいっ。なにひとりで鬱々してるの。わたしもいれてよ」

 白髪の少女が駆けてきた。
 私がとっさに振り向くと、彼女はひとつ笑みを浮かべて、そしてそのままくずおれてぼろぼろと泣き出した。私を見つけるまでずっと耐えていた、そういう感じだ。
 そういえばそうだったなあ、と、また水面を仰ぐ。そうだ、あれは、彼女の記憶だ。絶え間なく降り注ぐ怒号の嵐。暴力だけで済むのなら幸運だ。その日は、どちらかといえば幸いなほうだった。彼女は面倒ごとになる前にと急いて宿舎を出て、そこで彼らに出逢った。
 私は彼女の彼らへの想いを、知らない。

「どうしよう……わたし、ちーちゃんを殺しちゃう……っ!」

 他人に泣きつく、という行為は、五歳になるまでに身につければ、かろうじて覚えさせてもらえる。ふみは今まさに私に泣きついていた。どうやらそのために私を探していたみたいだ。
 ねえ、どうして私に言うの。
 私には、関係ないでしょう。冰のことなんて。

「殺しちゃえばいいよ。色々解放されて、うれしいんじゃない」
「だめだよっ! わたしのことで、ちーちゃんが死んでいいわけないんだよ……」

 死ぬの? それ、確定事項なの?
 ふみはネガティブ思考の申し子だから、ちょっと物事を深刻にとらえすぎる節がなきにしもあらずだ。私にも理解できないくらい、よく悩んでよく暴走する。面倒な子。でも、よく悩むからこそ、その先になんらかの答えを見いだしたとき、誰より強い。
 泣きながら、絞り出すように、ふみは語った。

「わたし、ちーちゃんにもらってばかりで、なにも……返してないのに……命までもらうなんて、おかしいよ」

 自責、自責。ふみの最大の悪癖。

「……私は、迷惑しか貰ってないんだけど?」
「え、ええっ……ここでそんなこと、言う? 圭、ちーちゃん嫌いなの?」

 励ましてくれるとでも思っていたのか、ふみは私の発言に驚きうろたえる。
 冰が嫌いかどうか。そんな問題ではなかった。私の意志に関せず、彼は身勝手にふるまうだろうから。彼はどこまでも他人なのだ。しかしそうかといって無視できる存在でもない。なぜなら、私の片割れであるふみの、大切な人だからだ。

「ふみを守るつもりなら……悲しませちゃ、だめでしょう。そんなこともわかってない、真性の、クズだよ」
「そんな言い方しなくたって!」
「するよ。……独り善がりのくせに、勝手に、私を巻き込んで。挙げ句、……君のために死なせろって。そういうことは、惚れた相手にしか言わないものだよ、覚悟を安く売り歩いてるの。ほんと……腹が立つ」

 結晶の海がざわめく。私の心に呼応して、耳に痛い騒音を奏で叫ぶ。ふみが不安げにそれを見上げた。

「ちーちゃんの覚悟は安くないよっ……安いんだったらわたし、こんな泣く前にさっさとちーちゃんをぶん殴って、生きろって言うもん。でも、それじゃ覆せないから」
「殴りたかったら一発くらい殴ってみなよ」
「ええっ」

 私はいつになく苛ついている。なぜだろう、と遠く水面に問うと、回答として「暑さ」が挙がった。そうか、なるほど。私の肉体は今ごろ熱帯夜にうなされているわけだ。そりゃあ、苛つきますよ。
 そしてその苛つきは、ここでは暑さでないところへぶつけることになる。

「……守るつもりなら、手段、選んでちゃだめ。殴って、だめだったら、力を使ってでも守るの。あなたにはできるでしょう。生きたい、って思わせれば、こっちの勝ち」
「それは……っ」
「人を生かすのに、道理も罪も、あってたまるか」

 吐き捨てるように言った。
 ふみが息をつまらせる。
 相談する相手が悪かったね。こっちは弟の命のために必死で体を張ってきたんだ。誰かを死なせたくないのなら、そこに譲歩なんかしないよ。諦めるなんて選択肢はどこにもなかった。嘆く暇もなかった。私は晶に生き延びてほしかった。
 晶は今も生きている。元気かな、どうかな。元気ならうれしい。元気じゃなかったら、何かできることを探そう。それだけだ。冰だって、まだ生きている。何かできることを探せばいいんだ。

「圭……、ありがとうっ」
「え?」
「そうするよ! そうしよう、一緒に!」
「あ、え……? なに……?」

 いきなり眩しい笑顔を浮かべはじめたふみに気圧され、私は一歩引く。ふみは一歩詰め寄ってくる。

「ちーちゃんは、死なせない」
「う……、うん」
「協力してくれるよねっ? 圭!」
「なっなんで私?」
「だって〜!」

 眩しい笑顔が迫ってきて、一方的にしっかりがっつり握手をされて、結晶の海に戸惑いが轟く。ふみはそれを目におかしそうに微笑んだ。待って、話が呑み込めない。説明してよ。まあ、とりあえず、ふみが泣き止んだからよかったけれど。

(守ることは、呪いじゃない)

(……そう信じるに足る、笑顔だった)


2018年2月18日

▲  ▼
[戻る]