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見上げた空のパラドックス
48 ―side Sora―

 私はいつから歌っていたのだろう。昔からなんとなく好きで、暇なときや料理中によく口ずさんでいた。以前はその程度の認識で、こんなに歌にこだわるようになったのは、間違いなく篠さんのせいだ。記憶を繋ぐために、歌を教えてもらったのだ。大丈夫、彼の歌はまだ心に残っているし、何曲かはフルで歌うことだってできる。でも、彼に篠さんの歌を聴かせるのは、どうにも気が引けた。独占欲みたいなものがあるのだ。
 いまになって思えば、篠さんには恋なんかしていなかった。私の恋は倖貴にはじまり、倖貴が死んだその時に一切が終わってしまったのだ。だから、私が恋を語っても、色褪せた旧い記憶に基づくしかなかった。
 ノスタルジア。私は、歌を歌うと、そういうものを感じる。あの頃よく聴いていたとかあの人がよく歌っていたとかそんな歌は、さまざまな思い出や感情を呼び起こしてくれる。忘れやすい私には、今や、とても大切なものだ。歌は。
 もちろん、聴いて元気になる、歌って楽しい、そういった役割もまた大きいだろう。どうしても虚無感に襲われたとき、私はだいたい人知れず歌うようにしている。そうすればまだ苦悩を紛らすくらいはできる。逃げるために、歌う。淋しいことだけれどもきっと何もなくなるよりはよっぽどましなのだ。
 まだ私がこんな薄暗い性格でなく、元気に走り回っていたころのカラオケ好きが、すっかり功を奏したといえる。
 それから私は、私が思う歌、ひいては音楽という概念についてを彼に語って聞かせた。音楽的な知識はそう豊富でないから、ただの娯楽としてだ。私の世界では歌を人に聴かせる職業があったのだ、とか、学校でも歌を習わされたのだ、とか。どんなジャンルがあって、私は何が好みなのかまで。
 退屈だったぶん、話は弾んだ。弾んだといっても彼はまれに質問を投げ掛けてくるだけで、大抵は私がずっと喋っていたのだけど。

「私達が知らないだけで、おそらく、この世界にも歌はあるのだろう」

 ひとしきり話を聞いた彼が言った。

「軍歌の存在だけは知っている。習ったことはないが」
「そんなことあるんですか? よく知りませんけど……軍歌って、みんな知ってるものではないんですか」
「どうかな。そんなに統率された軍ではないから。軍事を嫌いながら軍人をやっている連中も多い」
「……日本だから?」
「そうらしい。日本は一度は武力を封印し、それを正義としていた。その時代の名残が、まだあるらしい。特に中年以上の世代には」

 まさにその時代に生まれ育った私には頷ける話だった。確かに、戦争放棄は国民としての常識だったし、武力行使は絶対に悪なのだと教え込まれて育った私のような人達なら、軍事を嫌うのはむろんというか大前提なのだろう。

「その世代はまだ歌うだろうな。おまえの言うほど歌が浸透していた時代があったなら、その名残はまだあるはずだ」
「……それなのに歌、知られなかったんですね」
「ああ。若い知り合いが多いから。私は」
「その人たちも同じですか。知らないんですか、歌」
「大半はそう、だと思う」
「それは……悲しいです」

 答えると、沈黙が満ちた。沈黙をごまかすように、私はまた歌いはじめる。記憶の旅をはじめる。一曲ぶん、旅を終えて帰ってくると、再び彼と言葉を交わす。そんなことを何度か繰り返す。

「音を聴くだけで、心は動くものなのか」
「そうみたいですね」
「薬より簡単だ」
「その代わり、効果は不安定ですよ」

 夜通し話して歌って、疲れて眠る。こんな充実感は本当にひさびさで、それに隣でつき合ってくれた彼もまた、微かに疲れた様子で息をついた。
 8月11日午前3時と少し。
 さすがにもう眠ろうと身体を倒した私に、彼が卒然、なにかに気づいたように言った。

「わかった」
「なにがですか」
「恋」

 彼は、あろうことか――笑って。

「好きだ。おまえの歌が」

 どストレートに言うものだから、驚きと嬉しさと複雑さが絡んだ感情に苛まれ、私は表情を消した。

「……光栄ですけど。私を殺せなくなったりしませんか」
「? 何故?」
「ああ、いえ……愚問でした」

 何があっても目的を見失うような人ではない。それは私が身をもって知っていた。どれほどの殺意を向けても根気強く私をなだめて弱音ひとつ吐かないような人なのだ。ここは素直に礼を言うべき場面だった。

「ありがとうございます」
「ん?」
「嬉しいんですよ。歌を好かれるのは」

 歌を好きだと言われたのもひさびさで――最初はたしか倖貴だったか――懐かしさが沸き上がる。旧い記憶。私はそう呼んでいるけれど、実はたったの半年前ということもある大切な記憶たちだ。それらを抱えて動けない、忘れやすい私がむなしい。いつまでも私に付きまとう虚無感の正体は、きっと忘却そのものなのだ。
 そして私は気づく。気づいて、驚きすぎて、せっかく倒した身体をぐるりと振り回して起こし、彼に向き直った。

「……あっ。あのっ!」
「どうした」
「私っ……、思い出しました……!」


2017年6月26日 2018年2月13日

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