見上げた空のパラドックス 47 ―side Sora― 恋とは。 そんな哲学的な質問をされても私なんかが答えられるわけがない。今日が何日かといった問いとは格が違いすぎる。それをこのぼんやりした人はわかっているのだろうか。私は頭を抱えたくなった。抱えたくなっただけで、両腕は動かせないから行動には移せない。とりあえず、困ったということを表情では表しておいて、こう聞き返す。 「どうしてそんなことに興味を持ったんですか。キャラ違いませんか」 「さっき言った。人に会ったんだ。……そいつは非合理的な行動を取ったし、それを正しいと信じていた。その根拠が、どうやら恋らしい」 純粋にわからないから聞きました、といったノリなのだから呆れる。16歳なら初恋くらい済ませておけよ、なんて言うのもここでは酷なのだろうか。そういう問いはもっとエモーショナルな場面でするものだ、というところから教えないと話にならなさそうだった。 「どういう答えを期待しているんですか。科学的に答えるかエモーショナルに答えるか。どっちがいいですか」 「両方」 「よりにもよって! ええと……待ってくださいね……恋っていうのは……」 いざ、整理整頓。 「ふつうは異性に対する、性欲を含んだ感情なんですけど、現代ではもっと広い意味合いで……生存欲から派生した群れたいという衝動が特定の個人にのみ強く向けられる状態です。すると承認欲とか所有欲とかに繋がっていきます。脳内麻薬の過剰分泌期とも言われます」 むかし読んだ科学系週刊誌の受け売りです、ええ。倖貴の家にあったんです。絶賛片想い中の私には興味深かったからつい読み込んでしまったんです。黒歴史だからあまり気にしないでください本当に。 彼は私のうさんくさい説明をも真剣に頷きながら聞いた。 「体験的なことを語ると……その……一挙手一投足が気になって愛しくてしょうがないと言いますか、愛しすぎて挙動不審になって上手に話せなくなったり、話しかけてくれるだけでも幸せでたまらなかったり……私のことも好きになってもらえたら嬉しいなってことを毎晩考えながら眠るとか、なかなか告白できない自分が悔しくて泣く、とか…………」 駄目だ、恥ずかしくなってきた。顔が熱いのはわかっても手が動かないから隠すこともかなわない。そんな私をじっと見て話を聞いている彼が恨めしくなってくる。恋くらい自分でしろ! 私に聞かないで! と叫びだしたいのを彼の真剣さに免じてぐっとこらえる。 「だから、つまりっ。愛しいって気持ちが大きくなりすぎて暴走する状態のこと、だと思います。あの、一応聞きますけど、好きとか愛しいって感情、わかりますか。実感できますか」 「……自信はない」 「……」 どんな育ち方をしたのだろうか。彼は、さらにわからなくなった、とでも言うようにかぶりを振った。 私は、なにか底知れない悲しさのようなものをおぼえた。人を好かずに生きるなんて、私にはとてもではないけれど想像できないのだ。そんな冷たい人生でいいのか。いいわけがない。先祖代々、当たり前に恋をしてきたからこその人類なのだ。もう人間とはかけはなれてしまった私でさえそう思うのだから、当事者である彼が私よりも人らしくないなんて、許せない。 私に言わせれば――恋を知らないなんて、人間として欠けている。 「……わかりました、“感情”を差し上げます。ちょっとそこで座っていてください」 言って、苦労して立ち上がり、私は室内をざっと見渡した。六畳ほどで、白壁に囲まれていて、床はフローリングで、天井には四角いシーリングライトがひとつ灯っている。窓は鉄板で塞がれていて、家具はなにひとつない。コンディションは最高だ。 すっと、短く深く息を吸う。久々だからうまくできるかはわからない。 旋律を紡ぎ出す。 歌詞は乗せないほうがいいだろうと思った。感情のみを理解したいなら、言葉というメッセンジャーはあまりにもごてごてしすぎているから。意味のない音だけを連ねて、意味を秘めたものに変えてゆく。 彼がはじめて表情を変えた。最初は驚いたような。そして、徐々に困ったように。よかった、何かは通じたのだ。私の歌は彼の前に無力ではなかった。 「……なんだ……、今のは」 歌い終えると、彼が聞いた。 「歌です。ちょっと古いんですけど」 「うた、って、なんだ」 「知らないですか?」 「……ああ……、知らない……」 マジか。 絶句する。 言い様のない感情が胸を満たし、様々な思考が過った。 戦争はあった。私の世界でだって当然。でもそこに歌はあったような気がする。戦う勇気を出すにも、家族の死を悲しむにも、歌が用いられることはしばしばあったと教科書のはしっこに書かれていたような気がする。あれ。おかしい。この世界は今戦時中かそれに近い状況だろう、それはわかる。それでも歌をまったく知らずに育つなんてそんなことがあるのか。あっていいのか。よく知らないけどずいぶんな古代から人は歌ってたんじゃなかったっけ? それなのに。そんなのって。 確かに私は無知だ。 けれども、彼らだって同じじゃないか。 私が知り得たたくさんのことを、そうだ、彼らは知らない。そんな余裕もなく生きてきたから。 なにやら胸がはち切れそうで、わずかに涙の気配を知る。 「あの、どう感じましたか。歌、聞いてみて」 「……不思議だ。苦しい。が、おだやかな気がする。矛盾している」 「伝わってよかった。そういう感じですよ。恋っていうのは。それを、誰かに対して思うこと、だと私は思っています」 「……うた……は?」 彼は戸惑っている。今まででいちばん。私に対してこんなに隙を見せるなんて、普段の彼ならありえない。 「歌は……こういうものだ、としか。いろいろな声を繋げてみる遊びみたいなもの、とか。心を伝える手段のひとつ、とか。捉え方は人それぞれだと思います」 歌とはなにか。そちらのほうが私にはよっぽど答えにくい質問だ。歌ってみせることはできるけれど、それが何かを決めるのはあくまでも聴き手の主観だから。 彼が私を見上げた。私は視線を合わせるために座り直し、揺れる青の目を見た。今はぼんやりしていない。そんな彼を見るのははじめてだった。 「……高瀬、うたを、聴きたい」 「喜んで」 ここまで微動だにしなかった彼の心を動かすことに、私は成功したのだ――そう思うと、うれしくなって、私は彼の申し出を受けた。 2017年6月20日 2018年2月12日 ▲ ▼ [戻る] |