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見上げた空のパラドックス
36 ―side Kei―

(圭、よろしく頼んだよ。あなたにしかできない仕事なんだから)

 夜が明ける前に飛行は終わらせなければならない。もし、昼間になってもファリアへ辿り着けなければ、どこかのクレーターに身を隠して日没を待つしかない。異能者が白昼堂々異能力を使って活動なんて、どうぞ撃ってくださいと言っているのと同じことだ。

「……大丈夫、晶のためなら、どこへだって行ける」

 身一つなら空気抵抗が許す限り、この多すぎる荷物でも、車より数倍は速く飛べる。見立てが正しければ、二時間ほど。それが私の力を保たせなければならない最低ラインであり、体力が許す最高ラインでもあると思う。コンディションは、身体の方はそこそこ、心の方は最高だ。できない仕事ではないと自分に言い聞かせながら、目の前に転がるタンクをすべていつものガラスに変えて、そのままの形だと空気抵抗が激しいから、周囲の空気ごと流線型に整える。空を海に例えるならその様はまさに泳ぐ鯨のようだった。鯨の尾ひれが始まる辺りの上部に席を作って、私はそこに自分の身体を納める。ここまではウォーミングアップだ。本番はここから先。
 目を閉じる。ファリアがここからどの方角にあるかを頭に浮かべ、そのまま視界を取り戻すことなく、まっすぐに加速をはじめる。気圧、気温、風圧、風向き、空気抵抗。それらにのみ気を払って、あとのことは酸素の無駄なので考えない。風に押し潰されない範囲でならどこまでも加速は可能だ。自分の身体が後方に引っ張られる感覚が、少しずつ緩んでゆく。どれくらい速いかはわからないけれど速度が安定して、そこで私はやっと目を開く。
 星灯りの明るい夜だった。昨夜の雨が過ぎ去ったことに反感ばかり覚えていたけれど、いまはこの晴天に感謝する。遠く遠くまで見渡せば、小さな灯りの集まりが地上にもまばらに確認できる。よっぽど高所へ昇れば、地上もまた星空のように見えるのだろうか。昔は空の星が見えないほどに町灯りがあったと言うから、そう高くへ行かなくたって、町灯りという名の星空はよく見えたのかもしれない。だったら、きっと光の総量は変わりない。
 そんなことをぼんやりと思いながら飛んでいると、やがて、覚悟していた代償を払うときがくる。最初は気だるさ、進行すると頭痛。時計などないけれど、まだまだ道のりは長いのにも関わらずそれだ。私は焦るどころか笑ってしまう。辛いことに堪え忍ぶのには、きっと誰よりも慣れている。

「会えたら……」

 希望があれば、進むことができる。
 冰千年は的確にそれを提供したのだ。つくづく、取引のうまい奴だと思う。

「その時は……なにを言おう」

 私は考える。
 あの虐殺から今のいままで、晶に逢える日のことを、幾度夢見たかわからない。実験時に服用させられた薬の副作用でのたうち回り、数日してやっと正気に戻ったとき、最初に聞かされたのが虐殺の実態だった。一課二課問わず、敷地内にいたほとんど全員が何らかの手口でほぼ同時に毒殺され、その最中に行方不明者が三人出た、と。毒の入手経路を考えれば、犯人は晶しかありえない、と。そう聞いて、プロトタイプとしての私がはじめて発した言葉といえば、「なら、晶は生きているんですね」それから、「探してもかまいませんか」だった。答えはノー。私には前科があるからだ。お前が裏切らない保証がどこにもないから無理だと即答を受けて、私は涙を飲んで頷いた。そこで暴走せずに頷くことができたのは、ふみの従順さの片鱗だろう。
 あれから、二年間が過ぎてしまった。晶の居場所なんて見当もつかないままでだ。敵国に特諜の機密を持ち込んだのではないか、ということが最も危惧され、晶の捜索は表向きには急務とされていた。冰がどのくらい前から晶の居場所を掴んでいたのか、最初からわかっていたのか、それは定かではないけれど、私は特諜からさえまんまと騙されていたわけだ。

「“……無事でいてくれてよかった”」

 さまざまに思うところはあれども、まず言うべきはそれだろう。そう思って出した声が掠れる。声帯の震えが頭に響いたためだ。頭痛だけはこの能力で鎮痛できないから、ひたすら耐えるしかない。
 痛みに気がとられてガラスが大破してはひとたまりもないので、痛みを無視するように意識を集中する。私はこれができるから、幼い頃は自ら被虐に向かっていったのだ。私が大人たちの気をとれば、二課の同僚たち、特に晶は被害に遭わなくて済むと思ったから。予想外だったのは、晶が私のそれを真似ようと動いたことだった。私がやめてよと頼むと、晶は首をふって、このままじゃおまえが死ぬよ、とだけ小さな声で答えた。
 死んだってよかった。痛みくらいしか与えてくれない大人たちの命令で戦地に行って死ぬよりは、そうして誰かに命を捧げたほうがいくらかましだと思っていた。今も、それほど無謀ではないにしても、少しはそう思っているかもしれない。どうせ命を捨てるなら、誰かのためにという大義名分を背負った方が安心できる。そのためなら、どんな痛みも、耐え抜いて生きられる。
 信じて鯨の背中にしがみついて、星空の海を泳ぐ。
 あれほど憎んでいた大人たちが、いまでは私の一部だと思えば、もう皮肉と言っていいかもあやしい。他者を取り込んだ場合の人格への影響は決して少なくない。わたしたちは久本圭を気取るつもりで、もうとっくに彼女の人物像を見失っている。いまの私はどうしたって集合体であり過去から連続した刹那的な存在だ。いまの私がここで希望に辿り着くまで、晶を失ったことも、あの大人たちでさえ欠けてはいけなかったのだ。
 もしも晶が私ではなく彼らのほうを憎んで行動しているなら。
 もう憎むことはないよと、言えるだろうか。
 頭のみだった痛みがどんどん全身に回ってきて、私は奥歯を噛み締めて遠方の光を見つめる。決して失敗できないという焦燥がわずかに首をもたげ、よくない兆候だと自覚して落ち着こうと呼吸を繰り返す。
 ふと、涙が落ちる。
 身体が極度の緊張状態にあるから、これは反射神経のようなものだろうけれど、少なくともここ数年の記憶にはない光景に、私は息をのんだ。へえ、わたしって、泣くのか。そんな新鮮な驚きが、焦りを晴らしてくれる。

(あれ)

 そこで気づく。
 ファリアがもう目前に見えていることに。

(うそ、なんで)

 まだ30分ほどしか経っていない気がするのだけど。考え込んでいたから、時間が短く感じたのだろうか。
 全身が痛みにがたつくなか、私はファリアの敷地の門前に降り、ガラスへと変えてしまった物質をすべて元に戻す。と、わずかに気圧が上がってふわりと風が吹く。外では目深に被るようにしているフードが、煽られて外れ、まとまりのない髪が散って揺れる。貯水タンクが姿をあらわす。それをもう一度固め直して、組織の貯水槽へ回り込み、設置までを済ませる。
 私は髪留めを形成し直しながらふらふらと歩む。ちょうど、たしか医療班長だった気がする少年がこちらに向かって駆けてくる。さすが冰、着いてからの打ち合わせはしていなかったけれど、連絡は万全らしい。
 私はついに痛みを無視する集中を解き、その場にくずおれた。全身のありとあらゆる神経細胞が捻り切られているような痛みだ。こういうタイプの代償疲労は気絶できないぶん厄介で、ひたすら息を詰まらせてもがく私を、少年は困ったように見た。

「すごく早かったね、久本ちゃん。話は千年から聞いたよ。よくやってくれた。君の体調を説明できるかい」
「っ……私、の、代償……痛、み、だから」
「よーしわかった喋るな。視線で話そう。イエスなら俺を、ノーなら他を見てよ。いいね。まず最初の質問だ、いつもは薬を使うか?」
「……」
「安静にはするか?」
「……」
「その措置に、効果はある?」
「……」
「つまりいつもただ耐えてるだけってことか……意識はない方が楽か……? でも何かあったとき知らせられないと困るから……」

 ぶつぶつ呟く少年は、とりあえず医務室には空きがないので宿舎に送ろうと説いて私を抱えあげる。
 その道中に聞くと、医務室は現在満杯で、医療班でも動けるのは班長ひとり、他の人員では食事係の全員と戦闘員も数名だけらしい。その数名というのが和美さんの捜索に出払っているので、いま残っている食事係が総出で患者たちを見回っている。水がなかったために食料も摂れず薬も投与できない状況が続いており、もし通常通りの方法で水を運んでいたら確実に人が死んでいただろうとのことだ。君のお陰で助かりそうだと、少年は顔に疲労を滲ませながら笑った。
 宿舎に辿り着くと、にわかにひんやりとした静寂が耳鳴りを呼ぶ。宿舎というよりは病棟といった風な、緊迫した静けさだ。薄暗い廊下の向こうから、ばたばたと年少の食事係が必死の形相で駆け寄ってくる。

「班長っ! 緊急です!」
「待ってろ」

 少年は部屋へ駆け込み、私をベッドに降ろすと、短くまた来るからと告げて走り去る。


2018年1月11日

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