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見上げた空のパラドックス
34 ―side Sora―

 私は壊れたように泣き続けた。
 手持ち無沙汰となった彼が、泣きじゃくる私の隣で静かに口を開く。

「市場の……、“東京大火災”の件」
「……」
「死傷者は六万人だそうだ」

 市場。その言葉だけで私の背筋は即座に凍り付いた。いつもならどうにか聞き流せるはずなのに。記憶の奥の奥に押し込められた黒い黒い感情が、涙と共にさらさらと流れてゆく。
 彼の扱う言葉には、何らかの魔力があるのではないかと、疑いたくもなる。
 忘れていたこと。今だけ、思い出せたこと。それらが私の視界を揺らす。

「おまえには感謝している」
「……感謝? なにをですか」
「方法を示してくれた。ひとりで、どうすれば、どこまで殺せるか。正直、詰んでいた。私にそれほどの戦力を用意する力は……、人を集める力はなかったから」

 彼の言葉は本来の意味に関せず、私の内に眠る記憶を呼び起こした。
 言葉が通じずに途方に暮れたこと。ただ害意だけを感じ取って、いつの時代も変わらない東京の街並みを逃げ回ったこと。疲れ果てて踞ったころに捕らえられ、どこか埃臭い場所に鎖で繋がれたこと。銃声が聞こえて意識が途切れたこと。
 私はまだ覚えていた。都合よくすべてを忘れられたのなら、それがいいと思っていたのに。都合よくすべてを忘れていたからこそ、戦えていたと思っていたのに。
 私はまだ覚えていた。そして、私は、それでも戦えるのだ。
 それを、理解した。

「私を買ったのは、人を、殺させるためですか?」
「いいや。……強いて言えば、薬のためかな」

 言われ、ようやく、この記憶の奔流が薬の作用だと気づいた。
 泣きわめいた日々のこと。やがて疲れて無になった日々のこと。無の奥底から、純粋なる殺意としか呼べない感情が、するどく駆け上がってきた瞬間のこと。いつかこの身体を使い果たせるならばもっと早くと、願って焔を産み出し続けた日々のこと。
 発作ではなかった。暴発なんてしていなかった。私は、たしかに私の意思で、六万もの命を手にかけたのだ。代償疲労の激しい私が、倒れるまでひたすら火を放って、倒れて、目覚めたらまた火を放って――それを幾度か繰り返した。
 死体の焦げる臭い。くずおれて縮こまり、死後硬直によってごろごろと転がる元々は人間だった肉塊。朱色の光に照らされる、皮の変色した彼らの表情。黒い穴のような、無数の目が、私を責め立てていたこと。視線、視線。死者たちは私に視線を遺して去ったのだ。今も瞼を閉じれば広がる闇のなかに死者の視線は棲んでいる。彼らはここにいて、私を決して赦してはくれない。虐殺というただ一言で表すには、私はあまりにも殺しすぎた。罪というただ一言で表すには、私につきまとうこの視線たちは重すぎた。
 だれかがこっちをみている、という感覚。そんな些細なことのすべてがあのころの私には恐怖だった。視線を感じれば、もう、ろくなことがないと決まりきっていた。鎖を破壊することはできる、けれど、したところでまた捕らえられ、すべては繰り返すだけだった。だから疲れた。だから殺した。殺し尽くしても、彼らの視線は私を逃しはしなかった。
 だれかがこっちをみている。
 その恐怖がいまになって身を焼く。
 いつのまにか、思考に沈み、溢れる記憶の奔流に呑まれ、私はふるえている。
 強張った肩を、彼の白い手が、子供をあやすようにぽんと叩いた。わなないて身を引いた私の背にそのまま両手が回される。あっという間に抱き締める手際のよさは怖いほどで、慣れているんだな、と思う。子供の扱いというか、人の心の扱いというか、そういうものに。悪い、怖がらせる気はなかったんだ。抑揚のない声が耳元で紡がれ、私はわからなくなる。本当に、彼は私をどうするつもりなのだろう。

「……なんなんですか……あなたは」
「……さぁ。もう、見当もつかない」

 やっぱりらちが明かない答えしか返ってこないのが、少しおかしくて、身を固めていた恐怖がふっと和らいだ。拭いきれない涙が数滴、彼のシャツに染みる。申し訳なかったが、しばらくは離れたくもなかった。何ヵ月ぶりかもわからない温もりに、いつの間にやら違う意味で目頭が熱くなっていた。人が怖いと言っておきながら、本当の私は人がいなければ生きてゆけないのだと思う。親も友も恋もない私がひとりでやってきたこの世界は、とても冷たく寂しい。それをおそらく彼はよくわかっていたのだ。

「……リボン、」
「ん?」
「青いリボン……ありませんか」

 泣き腫らした目は開きづらく、閉じたままでぽつりと問うた。

「服に入っていたなら、一緒に洗濯したと思う」
「……ありがとうございます」
「薬、そろそろ切れるが、気分は悪くないか?」
「た、たぶん……」

 たくさん泣いたからだろうか、若干意識が朦朧としている。このままでいたら眠ってしまいそうで、私は慌てて両目を開く。文字通りのすぐ目と鼻の先には、彼の真っ青なポニーテールを留める髪飾りが輝いていた。丁寧に扱われているらしく汚れひとつなくて、限りなく透明な、硝子っぽい小石の連なったデザイン。いくら見ても久本さんがつけていたものと一寸の違いもない。

(きれいだ)

 私はあらためて見入った。

「教えてくれないか」
「え?」
「おまえの不死の経緯について。出来るだけ、詳細を」

 突然の問いに対応しかねていると、彼はさっと抱擁を解き、改めて私と向き合う形に座った。真面目な話をする体をとられ、こちらも気を引き締めての対峙を余儀なくされる。

「……思い出せないことが、けっこうあります。構いませんか?」
「なら、いずれ、思い出してもらう」
「……わかりました。お話しします」

 前の世界から何度も訊かれ過ぎた話だ、とっくに語り慣れている。だから躊躇することはなく、想起が可能なすべてを頭の中で順序だてて、私は口を開いた。


2017年2月25日 8月30日
2018年1月10日

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