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見上げた空のパラドックス
35 ―side Kei―

 瑞栄町は名の通り水によって栄えた町だ。今現在、ここ北関東において汚染されず生き残っている水源はこの町にしかない。むしろ、唯一生き残っている水源のもとで町が築かれ、水を売るという一大事業のもとに人々が暮らしを営んでいるのだ。この町がこうして動いてくれたおかけで、戦争が始まって以来絶えない餓死者はほんのわずかにその数を減らしている。
 町という言葉の定義はわからない。ただ、私は、ここを町と呼ぶのもどうか、と思わなくもない。
 建物がひとつ。たったそれだけを町と呼んでいるのだ。大きな建物だし、もちろんそのなかで人々は飲料に足るよう必死で水を濾過するシステムの維持に走り回っている。しかし、半分以上は貯水庫だから、実質たいした広さのもとに暮らしてはいないのだろうし、彼らは聞くところによれば自らの仕事場で寝起きをするという。水をつくるためだけに狭い箱の中で生きている人々の群れ。ここはそういう町だった。

「まあ、この町にいりゃあ命だけは安全だ。妙な組織に町を占領されることも、爆弾投げられることも、まずないだろうね」

 検問に入ると、厳重すぎるほど厳重な荷物検査及び健康診断がはじまる。武器などの危険物はすべて外に置き、感染症などを持ち込まないと確認でき次第、私たちは町に踏みいることを許されるのだ。徹底的に無害であると約束できない人間は生命線たる水を買うことができない。たいしたシステムだと思う。誰もこの町には手が出ない。
 審査が終わるまでに要する時間は二時間と少し。そこからどれほどの量の水を購入するのかと問われ、答え、支払いを済ませるまでが数分。これにも決して怒って波風をたてることは許されない。私は無害ですとあらわしつづけることが購入の最大の条件だから。町にいる間は、どんな戦場よりもある意味で気の抜けない時間が続く。

「運送は必要ありません」

 支払い時、問われるより先に、冰が言い出した。応対していた顔の真っ白な係員は、私たちがワゴン車一台だけで来ていると知っているから、怪訝そうにして、

「手段はお持ちですか?」
「ええ。ですから門前にタンクを出していただけますか。あとはこちらでやります」

 この町は、誰にでも水を買ってもらえるように、いちおう擁護派を名乗っている。なにか不審に思われても突然殺されるようなことはない。冰が、物怖じも説明もせずに押しきろうとしたのを目に、係員は何かを察したように顔を引き締めた。タンクを出すからそれまで待っていろと言い残し、連絡端末を取り出して指示を始める。
 その待ち時間になって、冰がようやく緊張を解いて無駄話を、いや私には必要な話をはじめた。

「なあ圭、さっきの、仕事の対価の話だが。この仕事が無事に終わったら」
「あの……その切り出し方は……いわゆる、フラグでは?」
「気にするなって。終わったら、晶に会わせてあげる」
「……」
「これじゃ、足りないか?」
「……いいえ」

 私は驚くタイミングを掴み損ねて、やっぱり居場所知ってたんだなあ、という気持ちに任せて彼を見上げる。彼はやはりまだ少しばかり不安そうだ。無事に終わる保証はないことを、真実の見える彼が言ったのだからそうなのだろう。私も意気込みだけあって、不安が消えたわけでは断じてない。
 やがて、水を運び終えたと伝えられ、私たちはこの町を出る。門の目の前の土に、何トンあるのかというくらいの貯水タンクが積まれている。私は覚悟を決めた。

「僕は車で帰るよ。君はこれを持って飛んでくれ。何かあれば24時間以内に駆けつけるから、生き延びてくれ」
「了解しました」
「で、その前に。食事していって。さすがにお腹へってるでしょ。僕のぶんも、いらないから」
「……」
「睨むなよ。いまは君を優先させてくれ。君のコンディションに組織60人の命がかかってるんだから」

 仕方ないですね。
 しぶしぶうなづいて、車内にあったまずい固形レーションと非常時用水を口にする。機能的な高カロリーが空きっ腹に染みていって、私は自分が相当に空腹だったことにいまさら気がつく。朝から飲まず食わずで、運転と慣れない町での緊張を経て、もう夜だ。飢えないはずがなかった。隣で暇そうにしている冰は、そんな様子こそ見せないけれど、ちょっと顔色が悪い。うまくいっても最短であと半日強の地雷原ドライブだ。心配にもなるけれど、それも水とともに飲み込んだ。
 では、行きましょう。
 冰と敬礼を交わして、私はガラスの髪留めを外し、広げる。


2018年1月9日

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