[携帯モード] [URL送信]

見上げた空のパラドックス
33 ―side Sora―

 異様なほどの沈黙。そうとしか表現できなかった。
 寝床と服はある。しかし今のところ食事はなし。よって排泄もなし。別になにやらあやかりたいわけでもあるまいし、彼に何か話しかけるほどのきっかけはゼロだ。彼も、あれきり、まったくもって私に話しかけようとはしない。ただ、たまに部屋から出ていったり、戻ってきたりしているだけで、あとは何をするでもなくひたすらに私を見ていた。注視というか凝視というか、その視線は観察のそれである。非常に気まずいものがあり、下手に口を開けぬ空気が実に半日と続いていた。
 六畳の部屋の端と端で、にらみ合ったままの拮抗状態だ。こちとら服装が心細いぶん、いくばくか気恥ずかしいので勘弁していただきたいものだ。しかし、おそらくあちらに妙な気は一切ない。ただ直向きに観察を続ける研究者のごとく、単調な目が私の一挙手一投足を逃してはくれないというだけ。
 居心地が悪い。
 彼が何者かさっぱり想像がつかないのだ。久本さんの血縁者。それはほぼ間違いないと思う。それよりもその立場だ。殲滅派か擁護派か。元は軍人であったことにはたがいないだろう。でも、ある程度戦地を潜り抜けてきた人特有の厳格さも時折の苦しむさまも、彼からはさほど見受けられない。そして医療の心得がある。けれども、やはり軍医とは言い難いのだ。もっともしっくりくる彼の所属は、国軍の研究開発部だろうか。もしそうだとしたら、何の目的があって私を。
 何の目的があって、冰さんは私を彼に渡したのだろう。苦しめるという予言だけを残して。
 篠さんのときもそうだったけど、これまた厄介な廻り合わせがあったものだ。目前の彼がそれだとは直感で解せるものの、あれはせいぜい精神的な基盤と生まれる国と出逢いやすい人間を規定する程度の役割しか果たさないだろうから、やっぱり謎は多い。
 まずは彼に探りを入れたかった。
 そう思い始めて、沈黙を破る英気を養うのに、数時間も食ってしまった。なんにせよ彼の観察眼はぼんやりとしているくせに鋭く、久本さんと同じにおいがする。こういったタイプには私の考えなど呆気なく見透かされがちだから慎重にならざるを得ないのだ。

「……あの、」
「どうした」

 ようやっと絞り出した声への返答は早かった。

「呼び名はありませんか?」
「決めないことにしている」
「どうしてか聞いてもかまいませんか」
「いいや」

 名前を教えなくたって、何らかの記号がなければ不便だろうに。彼は冰さんの言う通り、なにも名乗ってはくれなかった。
 ともあれ建設的な話がしたかった。

「私を、どうするんですか」

 問うと、今回はすぐに返事を聞けることなく、再び沈黙が舞い降りる。彼の視線は私に固定されているし、私も動ける空気ではないので、見詰め合うかたちになる。じっと覗き込みあって、青と蒼をぐるぐると混ぜ合わせ、体感時間にして数分。ようやく返答らしきものを耳にする。

「おまえの不死は完全か?」

 それは問いだった。
 最初は意味がわからず、首をかしげてしまう。不死は完全か。頭のなかで何度か反芻して、ようやく言葉の意味が頭に入ってくる。

「はい。今のところは」

 私がそう答えたのを皮切りに、彼はいつになく饒舌に話し出す。

「疲労があるし、睡眠もとる。心肺は動いていた。毒および呼吸機能への妨害はある程度は有効だ。ただしその他のあらゆる手段においてお前を傷つけるのは困難。でも不可能でない。痛覚はちゃんとあった。まあ、一定の刺激を越えると伝達が止まるらしい。心臓は、刺しているうちは止まっていた。麻酔を打つまでは活発だった神経伝達が、麻酔を打ったらおさまった。塩素を吸わせたら肺が機能を停止。麻薬や娯薬の類への反応も確認した。ぼんやりするか、気分の落ち込みはないか。もしあるなら、薬への依存もできるということだ」
「……」
「普通なんだ。薬の前で、おまえの身体は。死なないとは考えられない」

 率直に言おう。背筋が冷たい。理解できないものへの恐怖が一瞬で沸いて出た。
 一体なにをさらっと語っているんだこいつはとしか言葉が出てこない。先の衝撃であった弾の摘出などついででしかなかったのだろう。彼はもとから調べあげるつもりで私を切り開いたわけだ。私の意識のないうちに一体何があったかは考えたくもなくなった。
 しかし……、そうだ。考えてみればおかしいのだ。
 死へ繋がりそうな外的作用というのは、案外多い。いや、逆説的にいこう。本当に不死だと言うなら、生きていてはおかしい。生物とはそもそも死ぬのだから。それが、息をしている。鼓動を打っている。認識し、思考し、判断し、行動する。血が出ないのに、血管に毒を打てば回るらしい。確かに彼の言うとおり、私の身体は不完全というかつじつまが合わないのだ。

「……おまえ、なぜ、いま、活動できている?」

 問われても、答えなど私にもわからない。
 ああ、また沈黙だ。何かを言いたい気もするけれど、ただ淡々と私を観察するその目にどんな言葉をかけようか、すっかり見失ってしまう。返答に困る私を目に、彼はひとつ息をついて、そして――告げた。

「おまえは、死ねるはずだ」

 あっさりと。それが当然だと言わんばかりの、何気ない口調のままで。私が無意識に欲していた最大の神託を、あまりにあっけなく、だからこそ神々しく、告げた。
 私は動揺を隠せない。その言葉を耳にしたその瞬間から、心に湧きおこったこの感情には名前などない。ただ、もう彼を怖がるのはやめよう、警戒するのはやめよう、そう自然と決意していた。彼が私を捨てるときまでついていこうと決意していた。一瞬前まで詰めていた呼吸がゆるみ、入り乱れていたあらゆる感情がリセットされる。彼の青が、あの空を連想させて、空っぽだったころの感覚が蘇る。あのころは、ただ、ただ美しい、空を見ていた。それ以外の概念などどこにも存在していなかった。私は、純真で、潔白で、言い様もなく尊い存在だった。それを思い出した。
 死ぬとは、そういうことだ。
 空っぽになれることだ。
 私はそれに焦がれていた。いつから焦がれていたのか、たったいま理解した。私は私が火事で一度死んだそのときから、死を、切望してやまない。
 だから――。
 彼の紡いだ、たった一言に、私は救われた気がした。こんなひどい世界で、ひどい目にあって壊れて震えて泣いた、その先のいまになって、ようやく。
 ああ、やっぱりあなたはそうなのか。
 私はあなたの掲げる希望に抗えない。
 彼はそんな私の目の奥の奥を覗くようにしながら、続ける。

「一瞬でも生命活動を取り止めることには既に成功した。それを継続させるだけとすれば、方法は……いくらでも考えられる。ただし、条件が変われば蘇生してしまうかもしれない」
「……死ねるんですか、私が」
「いいや。現時点ではお手上げだ。申し訳ないが、時間が欲しい。まだ調べる必要がある」

 言って、彼は初めて壁際からこちらへと動いた。私のもとへ歩み、ほとんど茫然自失の私の手を取る。その手は、篠さんとは異なって暖かい。そしてなにやら袋を持っていた。ぼんやりとした目のままで、彼は純粋に研究に勤しんでいた。
 悟る。私は、彼が何者かなど、きっと知る必要はない。すべてはそこにある。

(……彼なら、私の命の消し方を、暴いてくれる)

 それならば何を投じようと構わなかった。尊厳なんて倫理なんてくそくらえ、と豪語してしまえるくらいの代物が目の前に横たわっているのだ。彼がもし私の命を突き止めれば、私はこの悪夢のような世界から解放され、他のもっとひどい世界へ渡ることも永劫になくなる。篠さんを忘れぬまま逝くことができる。
 自然と涙が落ちた。いつものように、自然と。

「私を殺しますか?」
「わからない」
「そう……、ですか」

 見たことのない配列。作用ももちろん知らない。ただ深く息を吸った。
 思考が霞み、ふっと緊張や不安が穏やかに融けて、涙が、ぼろぼろと、とめどなく溢れる。このまともに米にもありつけない狂った世界に来て何ヵ月でも人を殺めてきて、初めて、嗚咽を隠さずに泣く。たぶんそれが麻薬の力を借りてさえもこの私の精一杯の幸福だった。
 彼は、青よりなお青い目で見て、相変わらずひたすらに黙って佇んだ。そこには、ひとすじの、優しさに似たものがあるように思った。


2017年2月24日
2018年1月9日

▲  ▼
[戻る]