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見上げた空のパラドックス
29 ―side Chitose―

 目覚めた彼女にはたいそう驚かされた。
 ちーちゃん、なんて呼ばれるのは何年ぶりのことだろう。
 僕をそう呼ぶのは一人しかいないはずだった。だいたい、下の名前で呼ばれること自体そうそうあったものではない。当然だ、軍人なのだし。プライベートに仲良くなれた人間など、今までに一人か二人いたかどうかといったところで。

「……あっ、ご、ごめんなさいっ。あの、実を言うとわたし、まだ、定着していなくて、たまに色々混ざると言いますか……っ」
「いやあ、うん、知ってるが……」

 柄にもない。僕は動揺している。
 つい無意識で呼んでしまった、そんな口調だった。思い出したわけではなさそうで、かと言って今までのようにひたすら混濁しているわけでもない。圭の記憶を握り、圭の身体を使っている以上、彼女は圭でしかないのだろうが。決定的に今までと違うのは、彼女が、自分の主たる思考構成が誰の意識体によるものであるかを理解している点だ。
 ひとつ呼吸をする。状況を整理すると同時、力を、知覚を、目前の彼女ただ一点のみに集約させ、一息で深層まで潜り込む。こうなったら手段を選んではいられまい。プライベートもへったくれもない。探そう。彼女らがどこにいるのか? 一瞬だけ。潜って、理解して、戻ってくる。
 パチッ、と。
 脳の内側で小さな爆発が起こったような痛み、熱、圧力に身悶える。その拍子、腰掛けていたベッドから転げ落ちてしまう。

「……っ!」
「え、……ど、どうしました?」

 驚き、覗き込んでくる彼女の外見はもちろん圭だ。もともとは赤かったのに任務をこなすうちどんどん白くなった長い髪が目の前に垂れてくる。まだかろうじて赤みを残した目が、僕を捉え、不安に揺れている。
 昨日より純真になったな、という印象。スポットは間違いなく、ふみだろう。
 身を起こし、少し迷って、声を出す。

「ふみ」
「やめてください。……違いますから」
「違うかよ。君はずっと圭のふりをしてたはずだ。自分がふみかどうかもわかってなかったんだ。なんでわかった。何があった」

 彼女が常に抱えていた最大の虚偽がこれだ。
 彼女は圭ではないのに、圭であると偽って過ごしてきた。実験後から今までほとんどそうだ。稀に圭自身が表に来ることもあったようだが、それは大切な場面に限った話だ。だから、偽りすぎたから、もはや彼女自身も自らが圭だと思い込もうとしていたところなのだ。それが、突然、彼女は彼女を取り戻した。自らの中の圭を自らと認めず、否定し、区別すること。それさえできればふみとして振る舞うことも可能なほどに。
 何故。
 問うと、彼女はしばらく押し黙って、やがてその細い手を伸ばした。僕はその手をとって立ち上がる。冷たい、つまりとても気を張っている、そんな手だった。

「名前を呼ばれると、気がついてしまうんです、わたしたちは。自分がかつて自分だったということに」
「……そんな、簡単な。……そんな欠陥があったのか」
「ええ。欠陥です……だから、“久本圭”として、呼んでもらいたかったんだと思います。どうせ、気がついても、何もできないんですから……」

 窓外にひろがる晴天をちらりと見て、彼女は床を離れる。慣れたように髪をまとめて上着を羽織って、腰に銃を持つ。いつも通りの、圭の挙動だ。
 僕はどうすべきかと考えた挙げ句黙る。彼女の意識の混濁っぷりをまずどうにかしなければと思っていたのが、一気に解決してしまったわけで、それは別に悪いことではない。唯一、不都合なことと言えば、僕の個人的な感傷くらいのものだ。

(大丈夫だ、落ち着け、僕)

「わたしはどんな人でしたか」

 ふいに彼女が聞いた。その視線は、圭のものであり、同時にふみのものでもあった。
 形容しがたい感覚に、僕は答えに詰まって、目を背ける。

「……高瀬によく似ていたんだ」
「え」
「頑固で、純真で、無鉄砲で、責任感が強くて、……壊れやすかった」
「……そう、なんですね、わたしが」

 不思議そうに呟いて、彼女は微笑んだ。
 あまりに驚いたので、一周回って真顔になってしまう。まったくフラットな僕を訝って、彼女がなんですかと問うた。僕はただ首を振って、なにも答えなかった。
 彼女、笑うのか。
 戦慄することがありすぎて頭を抱える。彼女のことをだいたい把握しているなんてほざいていたのはどこの誰だろうか。僕だ。前言撤回だ。やはり、彼女は難しい。だれにも理解できない混濁と奇跡をその身に宿している。“圭”がどこまでこの件の推理を終えたか、どこまでの記憶を隠しているか――そこまでは視えているのに、いまだわからないのだ。
 久本圭は臆病で、だからこそ用意周到な思索家で、だのにここぞというときには不器用で抜けている、そういう人間だ。そこに何人かの他者が混じって定着しかかっている。もしもこのままで実験を押し進めたなら、彼女は、いったい何者になれるのだろう。どんな人間になってゆくだろう。
 それを追い求められない自分を、今だけ悔しく思った。


2017年6月12日 2018年1月7日

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