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見上げた空のパラドックス
28 ―side Kei―

 悪夢ではないと思う。
 わたしはまた結晶の海を泳ぐ。見上げれば水面には、高速でわたしの記憶のようなものが投影されている。この心象風景においては、結晶のひとつひとつが記憶の塊なのだ。どれがどれかは触れてみるまでわからないけれど、一つだけ言えるのは、コバルトブルーの結晶がいちばん大切であること。
 色とりどりの石を掻き分ける。
 透明な石を覗き込んで、はじめて自らの外見を知ることができる。見た目は、あの事件より前の圭そのものだ。髪が白く長くなるより前。印象は、いまとは180度違う。短い赤毛で、まだそんなに人に怯えてはいなかったころだ。どちらかと言うなら明るそうな。けれど明るかったじぶんという記憶は見つからない。
 わたしはなんだろう。
 たぶん、ここでのわたしは圭だ。余計な雑念、と呼べば怒られそうだけれど、余計な他者の意思が介入しない意識を獲得できている。ここでのわたしは観測者だ。圭が、圭の殺した五人が、ふみが、この身体に残している記憶を閲覧し、鍵をかけてゆく者。
 大切な記憶は、仕舞っておく。圭でない他者には渡さない。これは、わたしの意地であり、唯一残されたアイデンティティだ。この鍵が解かれないかぎり、わたしたちが完璧に同化することはない。わたしは、わたしであることを守れる。

「ねえ」

 声がかかって、振り返る。
 この海に泳ぐ魚はわたしだけではもちろんない。残り六人、どこかにたゆたっている。そのなかの一人、且つわたしの最大の敵が、そこにたたずんでいた。
 片山ふみ。生まれつき白髪で、けれど日本人らしい焦げ茶の目を持つ、いまのわたしよりさらに小さな少女。わたしはそれがわかっているけれど、彼女はわかってはいない。わかりたくない、の間違いかもしれない。ここにいる皆はわたしを除いて、みなが自らをわたしだと思い込んでいる。
 だから、名前を呼ぶととても怒る。
 自我を形成できないわたしたちが、自らを意識してしまう機会にあえば、苦しむのは当然だ。

「何をしているの」

 責め立てるような口調に、わたしは静かに返す。

「探し物」
「なにを?」
「雨のこと。どこだったか、って……思って」

 彼女の表情は生前とは打ってかわって固い。立ち尽くし、こちらを睨む彼女を無視して、わたしはまた結晶を掻き分け掻き分け、探してゆく。特には青い記憶だ。深く透き通った深海のような青。たぶん、弟の色だろうね。
 なら赤がわたしなのか、と聞かれると困るよ。赤は、血と虐殺の色だ。
 白はふみだと思うけどね。だからとても希少。

「六年前の7月19日、まだ天気が正しくって、夏だった。わたしは、宿舎で殴られながら、あなたの帰りを待っていた。どうして今日に限ってあなたがいないんだろうって……あなたを恨んだの。あなたがいれば、わたしは殴られずに済んだのにって」

 背後で語る声に、わたしはもう一度振り返って、彼女を見た。

「なにそれ……見たことないよ。そんなこと、あったっけ」
「どうかな。あったかもしれないし、なかったかも」
「……ありがとう。とりあえず、探してみるね」
「ねえ、どうして?」
「なに?」
「どうして記憶を隠すの……?」

 問い詰める、少女の無垢で悲痛な声が、わたしには辛かった。

「あなたには、それが……、解らないでほしい」
「このままじゃ怖いの。わたしがなんなのかわからないの。何も、思い出せないの」
「それで、いいよ。……ふみ」

 呼ぶと怒る。
 彼女は目を見張って、後ずさった。輝く結晶の向こうで彼女がどんな顔をしているか、すぐに見えなくなる。そして、遠くから彼女の叫びがきこえてくる。

「どうしていつもわたしを拒むの! 圭!」
「ごめんね……。私も、怖いんだよ、私が変わってゆくことが」
「わたしたちが……っ、受け入れなきゃいけなかった現実なのに! あなたが拒んだら、わたしたちはどうなるの!」

 その通りだろうな、と思う。
 殺されたくて殺されたわけじゃないのに、受けたくて実験を受けたわけじゃないのに、自分の身体や記憶を根こそぎ奪われた。あとに残ったのは、もう乏しい信念の欠片と、人格の片鱗だけ。それらを私が受け入れなければ、彼女たちは本当に報われず消えてしまうことになる。死んでしまうことになる。
 圭のなかという小さな世界においては、圭が神様なのだ。住人らの命運を、私が決めることになる。

「ふみは、少なくとも……消えないよ、きっと」
「どうして?」
「……気づいていないの?」

 私は結晶を拾い上げた。目当ての、青い、ひときわ大きな石だった。水面を見上げれば、そこに激しい雨が降り始める。ああ、この記憶だ、私のいとおしいトラウマ。この記憶を守り続けるかぎり、私は私を見失いはしないから。
 彼女からの返答がなかったから、私は雨垂れをじっと眺めながらこう続ける。

「ふみ、私のことを……、それから、晶と、ちーちゃんと、誠也くんのこと、よろしくね」
「え、……え、どうして知って、」
「あなたのほうが……、私なんかより、ずっと、強い子だと思う。必要なら……呼んで。私、ずっとここにいるから」
「まって、圭! 記憶! それ、わたしの……!」

 世界がほどける。水面が揺らぎ、石のすべてがぐるりと液状化して、私は奥底に沈んでゆく。
 この海を出れば、否応なしにわたしたちは混じりあって外側に出力される。仕方がないし、混じりあっている間の自我は、たいていが久本圭として振る舞うようになっている。他者たちには記憶がないからだ。それでも、主たる人格は入れ替わることができる。臆病者の私が、わざわざ外に出なくたっていいのだ。雨の日は特に、すぐ引っ込むようにしている。怖いからね。
 まあ今日は晴れたのだけれど。
 高瀬さんにお別れも言った。私の出番はもうないはずだ。
 あとは生き残るひとたちが、なんとかしてくれたら、それでいい。

(行ってくれ、)

(あなたを救いたい誰かが、そこにいるはずだ)


2018年1月7日

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