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見上げた空のパラドックス
27 ―side Chitose―

「圭、圭? おーい」

 高瀬を無事に送り届けたのち、僕は途方に暮れていた。
 確かに、早朝ではある。一般的な起床時間よりは早い。しかし普段の彼女であればこの時間には既に目覚めていて可笑しくない筈なのだが。
 宿舎に帰ってさらにしばらく待ってみても彼女が目を覚まさないものだから、さすがに訝る。なにか体調が悪いのか。昨日の疲れが残っていることももちろん考えられるが、代償疲労は少ないと言っていたし。倒れたのは人格交替のせいだろうし。
 呼び掛けてみても、うんともすんとも言わない。かすかな寝息が聞こえるから死んでもいない。
 どうしたものか。揺すれば起きるか。そもそも起こした方がいいのか悪いのか。今日の彼女に予定はない。もちろん訓練は怠るべきではないが。

「うーん……どうしよ」

 いやいや、この状況がおかしいことに変わりはない。そもそも彼女はたがいなく特諜育ちなのに、眠る自分の隣でこれだけ明確な気配をもった男がうろちょろしているのを見過ごすわけがない。見過ごすような奴ならこの年齢まで生かされないだろう。敵意を持ってみれば起きるか? とも思ったが、不発。どうしてもすやすや無防備に眠っている。
 おまけに僕の力は常時であれば眠る人間の無意識を相手にしてなにかが見えるほど強くはないから、なおさら彼女の身に何が起きているかは定かでなかった。

「圭〜、どうした〜」

 結果、のんびりと呼び掛け続けるだけの時間が過ぎる。
 圭はかわいい。弟の方がそうなのだがきれいだ。目元にかかる鬱陶しい前髪を少し切って笑顔を見せれば、周囲の男の目くらい簡単に引ける容貌をしている。身体も華奢で色白で、成人に近い年の割に少女のようなのだ。引っ込み思案で口下手だが、まあ任務であればはきはき喋るし、不都合はない。
 それが、個室に二人だけで、薄着で、眠っているとなると、さすがの僕でもつらいものがあった。

(煩悩……)

 彼女、この見た目で特諜となると、相当ひどい経験があるだろうな。
 そこまで考えたところで自分に嫌気が差してきて、軽く頭を振り、立ち上がる。窓を開け、改めて昨夜の雨が止んだ薄水色の空を見た。
 今日も肌寒い。晩秋のような気候がずっと続いている。八月中旬なのにも関わらず、とは大人がよく言っているのを見かけた。僕らの世代では、もう、四季の感覚などないに等しいから、違和感もなくなってしまっている。しかし、異常気象であるとだけわかれば、そのぶん警戒することも覚えていた。世界に異変があれば、人にも異変が出るのだ。
 この“夏”は、また一つ、この世界の摂理が綻ぶ。
 何が起きてもおかしくはない。明日、いや五分後にでも、僕らは死んでいるかもしれない。そんな漠然とした不安を抱えて、人々は生きる。

「なあ」

 そう、気が向いたのだ。
 監視される側が監視する側に縛られるのはもちろんだろうが、する側だって大方はされる側に付きっきりでいなければならない。
 だから、手持ちぶさたになって。暇ができて。たまたま空を見上げたから。
 そんな微々たる一つ一つの理由で、気が向いたから。

「……いるか〜」
「いるよ」
「マジかよ。君も暇だなあ」

 数多ある世界を合わせれば相当数がいる感知系異能者のうち、特に上位の、力の強いものは……この世界群に暮らす人類としてはきわめて特異な権利を持つことがあった。あらゆる虚偽を暴く僕も、ヒトの魂の形を捉える桧理子もそう。世界の垣根を越えて予知をする青年も、物の記憶を盗む少女も、歪みを風と称した少女も、そうだ。
 彼と意思疏通が可能だった。会話、ではないと思う。しかし会話のような心地で、“話す”ことが可能だった。
 理屈は彼でさえうまく説明ができないそうだ。ただ、異能はぼくらに干渉する一つの普遍的な術だ、と言っていた。
 わからないか。わからないだろう。僕らでないあらゆる人類には。わかってほしくもないが。

「調子はどうだ」
「……かわりないよ」
「だろうなあ。じゃあ、君から見て僕らの調子はどうだ」
「かわりないよ。まだ」
「そりゃあよかった……」

 彼が何者なのか――その答えにたどり着いた者は、まだいない。ただ、彼は誰に会っても開口一番、謝罪を口にする。それだけがはっきりしている。僕らがその意味を理解するときが来るのか来ないのか、それさえ教えてはくれないのに。
 だから。

「見てろよ。僕らを、最後までは」
「言われなくても、否応なしに見るしかないんだ」
「じゃあ、その退屈さをぶち破ってやるから」

 僕には彼のことは何一つ視えない。物心ついた頃からそうで、彼こそがもっとも安心して話せる相手であることは揺らぎそうもない。僕らの過去や未来を、彼は心を含まない目でじっと見ていて、僕はただそれを盲信すればいい。派手に言ってしまえば、神様みたいなものだ。未知とは、神秘と言い換えることが可能なのだ。
 それを突き止めるまでは走ろうと決めたのが何年前か、もう覚えてはいない。僕は、きっと、彼の目を留めるために走り回っているのだ。二課のことに首を突っ込んだそもそもの理由がそれだ。誰にも言ってはいない。だれもしらない、僕だけの、動機。


2017年6月12日 2018年1月7日

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