見上げた空のパラドックス 26 ―side Sora― 「っ……、っく……」 痛くも苦しくもないのだと思う。それでも頭が割れそうに圧迫されたような錯覚があって、思わず蹲り、頭を抑えた。言うべき言葉は見当たらなかった。言語による思考がとり為せるほど余裕がなかった。多すぎる情報と言うものは時に暴力的に脳をえぐる。瞬時に緊張は張りつめ、振り切って、動悸と頭痛とその他の症状を訴えてくる。ただ、ただ涙が溢れ、汚ならしい石畳の上に落ちる。 薬のにおいがした。あどけない子供がいた。たくさんの。みなが狂っていた。狂うように調整されていた。狂っていたから強かった。だけどもう限界だった。泣き叫んだ。命乞いをした。そんな人間はいらなかった。だから人をやめさせられた。科学で。科学で? どうやって? 雨が降っていた。黒い血の塊が水溜まりの中に落ちた。誰かが笑っていた。楽しげに。泣きながら。それを誰かが見ていた。水溜まりを覗き込んだ。ゆっくりと、流れ移ろう水面に、赤く、歪んだ自らが写し込まれた。嘔吐した。水溜まりは、さらに汚れ、笑い声が強まった。震えていた。赤い。赤い、髪の。 「はい、ストップ」 掛け声一つ。流れ込む情報はぴたりと途切れ、じんと痛みの残響が頭に木霊する。 「大丈夫か? 初恋の人の誕生日とか初めて料理したメニューとかまだ言える?」 「どうしてそう、気を抜けば忘れそうなピンポイントなところを……言えますよ、まだ」 「よかった。じゃ、行こう」 再び歩き出した彼からはもうすっかり害意が感じられず、私はまた、ふらつく足をその背を追うために踏み出した。 今の記憶は、いったい誰の。 おそらく彼のものではないだろう。彼が自らの記憶を私なんかに流し込んで何か得をするとは思えないし、得をするとしても彼なりのプライドが許すかどうか。彼は基本的に秘密主義。私が勝手にそう思っているだけかもしれないけれど。 しかし、尋ねるのは、憚られた。 一人では抱えきれないから私に託したのだろうと思って。理子さんのときと同じように。ただ受け入れるべきだろうと。 「そろそろ着くよ」 流し込まれた記憶のあまりの衝撃に考え込んでいるうち、ずいぶん歩いていたらしく、私は彼の声ではっとし、顔をあげた。 示された建物は崩れていないだけ周囲と比べれば小綺麗で、窓は塞がれていて、入り口は一つ。閉塞感のある灰色のビルは二階建て。ほんの少しだけ既視感がある。思わず目を背けるも、その視線は次の刹那に引き戻される。私たちがその前面に辿り着くなり、前触れも音もなく、重厚な玄関扉が押し開けられたから。 青い。 深いコバルトブルーの髪が、真っ先に目に焼き付く。長いそれを無造作に後ろでまとめ、物言わず、同じ色のぼんやりとした目をじっとこちらへ向けているその人。体躯は細い。中性的で、きれいな人だった。 「品物だ。届けたぞ」 「ありがとう。……待て。冰、おまえ」 「あーあー、聞き飽きたね。気にしないでくれ。医者はこっちにもいる」 「……わかった」 声だけは低く、男性的だった。初めてそれで彼があの名称不明の少年なのだと理解する。 「彼女を頼んだよ」 「……ああ」 少年のたしかな頷きを目に、冰さんは今度こそ踵を返した。そそくさと立ち去る姿は見る間に離れ、角を折れて消える。 二人、取り残され、沈黙が訪れる。 逃げる気はまだない。いざとなれば忘れることができる。だから安心しているのかもしれないし、彼に害意がないからさほど警戒していないのかもしれない。そうして今はひとまず彼に関する情報を欲した。目を合わせる。私のそれよりなお青い青を捉える。 (見覚えが……、ある) どこで? 記憶を探る。深く潜るまでもなく、すぐにその正体を見つける。そうだ、けっこう見慣れているじゃないか。そっくりなのだ。顔の作りも、髪の癖も。 「……久本、さん?」 彼はなにも答えず、ひたすらに黙って私を見つめた。 「あの……?」 「高瀬青空。通算で13歳、女性。出身地不明。東京大火災の犯人で、ファリアの戦闘員では最下層にいた」 「え、あ、……合ってます。私です」 「入れ」 室内に通されると、染み付いた消毒液のにおいが鼻をつく。病院特有の。さらに二階は圧巻だった。壁一面に棚。ずらりと、用途の知れない薬瓶が並んでいる。一個一個に詰まった物質はすべてが異なり、それがよく見える私は目が回りそうだった。 続く、続く、沈黙。 寡黙な人だと思う。わりと図々しい方だと自負している私でさえ口を開くのが躊躇われるほどの沈黙に貫かれ、張りつめた心地に任せて立ち止まった彼にならう。 彼は私には背を向けたまま、考え込む素振りを見せた。 置かれた状況を把握できない私は戸惑うばかりで、手持ち無沙汰に彼を見つめる。 やっぱり、血縁者としか思えない。あちらこちらに面影があるのだ。それに、その白いガラスの髪留めは、確かに彼女のそれと同じもの。 (試そうか?) いや、どうだろう。 仮に彼が間違いなくあの並外れた戦闘力を持つ久本さんの血縁者とすると、彼もまた同類である可能性がやはり捨て切れな―― ひやりとした悪寒が、背筋に迸る。 瞬時、棚に立ち並ぶ薬瓶は刺激しないよう、壁際にぶつからぬよう気を付けはしながら、跳び退く。 彼は私の反射に驚くことなく、至って冷静に、即座に拳銃を構え、迷いなく引き金を引く。 避けきれない。とっさに思い、力を使う。 解毒。 間に合うか。間に合うはずがないか。諦めなくてはならない? 五発。心臓の位置に的確に撃ち込まれ、すぐさま立っていられなくなる。軽い毒が塗られていたためだ。意識が飛ぶほどではないにせよ、たちまち思考に分厚い霧がかかる。ああ、これでは力が使えない。 なんだ、効くのか。そうぽつりと彼が呟く。それから、床に転がる私へ慣れた風に手を伸ばした。 圧迫感。 経験のないおぞましさが、背中から全身へ駆け巡った。 「っ……、――!」 「少なくとも不快感はある……と」 認識が遅れる。叫んで、暴れて、押さえ込まれて、そしてようやく自らが何に苦しんでいるかを理解した。 抉じ開けられた傷口に、ピンセットを押し込まれ、体内をまさぐられているわけだ。 (摘出……!) つい先程撃ち込まれた弾丸の重みが消えても、私の血肉をかき分けるそれの耐え難い異物感は圧倒的すぎて。麻酔なしで手術? ふざけんな、としか言い様もあるまい。異物は、一切の躊躇いなく私を抉り、抉り、塞がろうとする傷口の邪魔をする。ただでさえ、内蔵の集中した箇所だ。不快感は普段の比ではない。痙攣する。 「おまえ……。最近、全身に弾幕でも受けたのか」 「う、ぁ……、はっ……」 「……待て。楽にする」 まともに喋れない。頭が真っ白で。血の気が引いていた。ひたすらに、凍りつくような悪寒が背筋を這いずり回る。先ほどまで体内にあった弾丸が、すぐ隣に置いてあった。まったく血に濡れていない鉄の塊はしかしひどく残酷に思える。気持ちが悪い。気持ちが悪いのだ。知覚が痺れて赤黒く滲み、身体は動かせやしないのに、視界がぐらついた。痛みを感じないこの身体は便利だけれど、だからこそ痛み以外の感覚が増幅されて脳に届く。まともに痛みがあったほうが、やっぱり正常なのだろう。この不快感が私以外に理解できるとはとても思えない。 いったん離れていた彼がまた戻ってくる。それを認識するなり、知覚がふいにぶれ、掠れ、遠退こうとした。全身が恐怖に戦慄く。細胞を侵す毒素に抗おうと必死になる。ここで意識を手放せば、私はいったいどうなる? 「眠っていい」 「……」 「大丈夫。もう苦しむことはない」 ああ……覚えている。 彼は。 苦しみと暖かさの狭間で、私の世界はぷつりと途切れた。 2017年2月3日 6月10日 ▲ ▼ [戻る] |