[携帯モード] [URL送信]

見上げた空のパラドックス
21 ―side Chitose―

 彼女が医務室を去った後は、外からの雨音以外、きわめて無音に近い静寂が僕らを支配していた。僕は何を言わずとも立ち上がって、そのまま部屋を出るべく歩き出す。追うものはいなかったが、ノブに手をかけたとき、僕の担当医を気取る医療班長が、静寂をやぶって声を発した。あと何日か、と。張り詰めた空気がそれで揺らぐことはなく、むしろ、いっそう強まっただけだった。扉を潜り抜け、後ろ手に閉めてから、僕は答える。
 一ヶ月。
 ひと気のない暗い廊下に、自分の声が染みて消えた。その足で隣室へ向かうと、待ち構えていたかのように扉が開く。見慣れた白髪が顔を出した。僕は片手を上げる。彼はいつも通り不機嫌そうな顔で、

「お前が挨拶するようになるとは、気弱なもんだ」
「喜べよ。ふてぶてしい部下がやっと上司に気を使うようになったんだ」

 笑って入室する。足音は、できる限り抑えても意識すれば聞こえる程度鳴ってしまう。灰野は案の定顔をしかめた。扉が閉まる。

「撃たれたって、誰に」

 座る間もなく灰野は詰め寄る。僕は気にしないふりをして椅子に腰掛け、肩をすくめる。

「海間だが。煽ったのも避けられなかったのも僕だ。恨むなよ」
「お前、いい加減無茶苦茶やりすぎじゃないのか」
「死ぬ瞬間までたっぷり無茶苦茶やるつもりだ」

 ぽつんと置かれた机の上で、数枚の書類が散らばっているのが見える。覗き込めば異能者取引の契約書で、商品であるところの人物に関連しそうなデータがずらりと並んでいる。そこに記された値段、その桁の多さを目にするや、さすがの僕も失笑を禁じ得ない。通常の売買でも最低で紙幣が百枚は飛ぶのだが、これはその比にもならなかった。
 買い手は久本晶、品は高瀬青空。
 彼女を引き取ってくれと頼んだのは僕だが、買うと言い出したのは晶のほうだ。お前の計画には乗ろう、ただしアンフェアなことはしない、と。金を積めば人を所有するにフェアなのかと問われれば、時代によるとしか言い様がないが。晶のその辺りの感覚はこの上なく物質主義的で、自分が彼女を引き取る場合に生じるだろう利益ぶん、きっちり金を積んできたらしい。

「花、買えそうだなあ」
「まったくだ。いったいどんな口車に乗せたらこうなる」
「さあね、慰謝料でしょ。彼女は僕らの最大の被害者だ」
「だったら彼女に払えばいい」
「そりゃ無意味すぎる。ま、彼女にそんだけの価値があると認めたってことだ」
「そりゃ無意味すぎる」

 気休めにしかならない数字の羅列を眺めて灰野がまた渋い顔をしている。戦乱の世であればあるほど世界は金で回るものだが、やはり心までは買えないのが現状である。高瀬の売買に金を積む意味はどこにあるのか。それは、金を積んだ晶本人にしかわからない理由が少なからずあるだろう。晶のことは僕も詳しくはわからない。圭に聞かないと。
 ともあれ高瀬の売却がようやく形式的にも決まり、恐ろしいことに支払いも済んだと言うので、あとは送り届ければ取引は完了となる。

「明朝また連れて行けばいいかな」
「大丈夫か冰。私が行くか?」

 さすがに撃たれたとなると誰も彼もが僕に心配の眼差しを向けてくる。対応には困るが、助けてくれる誰かには事欠かない――それを確認できるだけで、今のところはじゅうぶんだった。

「信用されてない奴が行っても撃たれるだけだって。平気だよ、どうせ車で行くんだし」
「足だけじゃない。ユーロのやつら、未だに泣いてるらしいぞ。あんな規模で干渉なんて、ぶっ倒れて当然だ」
「はは。久々に獲物がいたんで飛び付かずにはいられなくてさ」
「笑い事か」

 この手の話は灰野に対しても深くは語っていない。倒れるとわかっていて干渉を、記憶の共有を図る僕が何を考えているか。上層部に禁止されるまで人を殺し続けた理由はなにか。見当はついているのだろうから、問われたこともない。
 昔は、自らの記憶のほとんど全てを、殺してもいい敵に向かって投げつけていた。脳に大きな負担がかかるそれに敵が苦しんでいるうちに、速やかに殺した。ご立派な自傷行為だ。僕は、自分の命を縮めるために共有を、彼らを苦しませないために殺人を繰り返していた。僕の記憶を抱いて血を吐き倒れてゆく者を見ると、不思議と安心したのだ。僕ではない“僕”が、僕の苦悩を肩代わりして終わらせてくれたかのような――錯覚。ひどい話だ。
 今もその癖は抜けていないし、隙あらば共有を図ろうと考えてはいる。しかし、殺せないぶん、程度は軽く済ませなければならない。立場上、明確な情報となりうる事柄はインフォームしてはいけない。いまこの力を使うとすれば、形を成さないぼんやりした印象の塊を投げつけるに留まる。これでも脅しには十二分に使えるのだから、銃よりよっぽど有能だ。僕はこの力の正しい使い方を覚えたのだ。
 Sは力のオンオフがきかないと言われているが、名の通り、それは“感知”に限った話だ。発作時でなければ。

「あの程度じゃ大したことない。やつらの心が弱いだけだ。灰野は気にしすぎだよ」
「その言葉、信じるからな」
「おー、信じてくれ信じてくれ」

 書類を机に戻し、席を立つ。痛みをこらえ、歩む。灰野の眼前まで。僕のほうが背が高いので、見下ろす形になる。それでも灰野が上司であるという精神性を見失ったことはいままでに一度もない。有能かどうかで上下は決まらない。きっと、そこに彼をファリアの長たらしめるカリスマがあるのだ。

「ふみのことだが」

 切り出すと、空気が変わった。引き締まったとでも言うのか、窓外の雨風がどこか遠くなる。

「さっきなんだが、確信した。想定通り。ふみも……圭も治せる。ちょっと時間はかかりそうだが。晶の協力も間違いなく仰げるよ。ただし」
「……ただし?」
「僕は死ぬと思う」

 彼は少し黙り、そして呆れたように、そうかと答えた。

「医療班のやつらには黙っててくれ」
「誰も言わねえ」
「うん、頼んだ。……こっちはもうひと頑張りする。圭を説得するのは、今まででいちばん難しいみたいだ」

 対策案第一実験から第二実験まで。東京大火災から金桐町の事件まで。土台は積み重ねてきた。海間日暮のことも、高瀬青空のことも、久本圭のことも、だいたいは把握できた。僕を含めて駒は出そろっている。あとは、正しく並べられるかどうかの勝負だ。タイムリミットは一ヶ月と定まっている。僕にどこまでやれるのか、誰を殺せるのか、誰を救えるのか、試されているひと月だ。
 もう少しだと思えば、痛む足を引き摺ることなど造作もない。
 いつからだろうか。いつから僕は自分や他人の死期が視えるようになった。殺し回っていた頃ではない。たぶん、僕らがふみを失ってからのことだ。死期を悟って、はじめてやるべきことが見えた。それが近づいた今ならなおさらだ。
 偽物の僕を殺すことももうないだろう。僕は本当に終わることができるのだから。

「なあ、医務室に帰るの面倒だからここにいていいかな」
「はあ? なんもねえぞ」
「それがいいのさ」

 夜は雨と共に更ける。
 晴れたら、また圭の様子を見に行かなくてはいけなさそうだ。


2018年1月6日

▲  ▼
[戻る]