[携帯モード] [URL送信]

見上げた空のパラドックス
19 ―side Kei―

 冰千年が、倒れた。ベッドまではあと数歩といったはた迷惑な位置の室内で、私の目前で、唐突にだ。頭を打たせないよう咄嗟に抱えるも、そのずしりとした重さに思わず歯を食い縛ってしまう。意識がない。まずベッド脇まで彼を引き摺って凭れさせ、脈と呼吸を測る。どちらも遅く弱い。手が異様に冷たい。
 オーバーワーク。
 俗称だ。正式に言えば異能力使用後代償疲労性症候群。異能力を過多に使用した直後に出る、倦怠感、平衡感覚喪失、頭痛、失神などの症状を指す。特徴としては、唐突であること、体温の急激な低下を伴うことなどがある。
 力を振り絞って彼を持ち上げ布団に放り込んで、私は途方に暮れた。代償疲労を組織内の医療班に診せたら、彼の異能が発覚しかねない。
 仕方がない。数分待って、起こすことにする。

「冰さん。起きられますかっ」

 揺さぶると、呆気なく彼は目を覚ます。最初に私を見て、周囲を見て、

「……あ、僕、倒れた?」
「倒れました……」
「ごめんごめん。心配かけた」

 心配したのはじぶんの立場ですけど。
 冰はむくりと起き上がって、何事もなかったかのように曖昧な笑みを見せる。体温はまだ低いはずで、寒そうに布団を身体に引き寄せる。慣れていると言わんばかりの冷静ぶりだった。
 感知系は能力のオンオフが効かないから、異能力使用は常時ということになる。そうなれば僅かなりとも代償疲労が刻一刻と彼の身体に蓄積されて続けているわけで、たしかに頻繁に倒れても仕方がない体質と言える。
 彼もまた早死にしそうだ。
 私と同じ。

「今日は調子に乗って力使いすぎたからなあ」
「……記憶、は?」
「はっきりしてるよ。悪いね、話の途中に」

 そう言って彼は布の貼られた窓へ視線をあてがう。小刻みに震える窓の向こうでは、まだまだ雨がやみそうにない。私の苦手な雨が。遠い目で雨の向こうを見つめた彼は、しばらく黙って寒さに身を震わせた。
 目の前で凍える人間を見ていると、私もやけに寒く思えてきて、髪を解き、ベッドに腰を沈める。
 すると、卒然、激しい後悔が湧いて起こった。私はいったい何故彼の目的なんて問うたのだろう。彼は私が恐れ憎んできた上層部その人なのだ。私が特諜の人間として心に留めるべき必要事項は、ひとえに盲従することだったはずだ。そうでなければ殺されかねない。命令に、理由なんて、聞いてはいけないのではなかったか。

「言ったでしょ」
「え」
「僕は簡単に殺すつもりも、簡単に殺されるつもりもない。それと、君は大事にする。人を、たくさん殺すために」
「……」
「いずれわかるよ」

 いずれ。誤魔化しではなさそうな、たんに事実であるというような、素っ気ない口ぶりだった。だから私は引き下がる。
 雨足が強まるばかりだからか、根拠のない不安が絶えない。二人して窓の方をしばらく眺めた。考える。雨、どうして苦手なんだっけ。昔は別に平気だった気がするのだけれど。何かあった気がする、と記憶を遡ろうとして、それを遮るように冰が言葉を吐いた。

「医務室、行ってくる」
「……え、でも」
「平気だ。いつも行ってるから」

 言いながらがたりと立ち上がり、血色の悪い顔で扉に向かおうと歩きだした冰を、私は慌てて引き留める。

「ち、ちょっと、冰さん」
「なにさ」
「足音。そのまま歩いたら、足、もっと痛めますよ。……傷、どこですか」

 いつになく頼りなく大きな足音を立てたものだから驚いたのだ。いつもは無音で行動できるよう洗練されているだけに、彼が立てる足音というのは目立つし、異常だ。そう指摘すると彼はわずかに目を見張る。それから神妙に頷いて、ズボンの裾をわずかにたくし上げた。私は許可を得て包帯を外す。
 銃弾がかすった具合の、わずかに抉られた傷口はまだ新しい。いつのものかと問えば、今朝だ、と言うから戦慄した。私が起きるより前に隠密に外出していたということだ。よく寝ていないとはそういうことか。

「……熱は出ていましたか。倒れる前」
「さあ。調子が良くはなかったが」
「当たり前です……怪我の直後に、雨のなかを走る馬鹿が、どこにいるんですか……」
「おー、言うなあ」

 かすり傷もこの時代では洒落にならないのだ。日本列島に広がる荒野とクレーター軍、それらは化学物質に汚染された毒物の温床だ。不発弾から地中に染み出した汚染物質が、どこをどこまで侵食しているかなんて、わからない。そこで戦って怪我を負い、万一傷口に砂でも入ったらと思うと恐ろしい。

「とりあえず……固めます。悪化は、しなくなりますから。……行きましょう、医務室」

 傷口周辺の細胞をまとめて能力で固める。これをやると神経まで変質するので痛みを感じなくなるのだけれど、代わりに周辺が鬱血するから長くは使えない手法だ。私は急いて彼に先導した。彼は未だに驚いた様子で動かない。どうかしたのかと問うと、彼はやはり神妙そうに首を振る。私は気にせず部屋をあとにする。
 宿舎の出口に常備された傘を開いて土砂降りの中を本棟まで歩く。彼の足音もこの轟音の前では聞き取れない。ざあ、とうなる水の銃声が、敷地内に響きわたり増幅される。音の洪水のただ中にあって、私の肩が震えているのが、寒さのせいならいい。そう思った。

「――君は、圭じゃないよね」
「はい? すみません……何か、言いましたか」
「いや。ひどい雨なのに平気そうだなあって」
「あれ……どうして、知って」
「視えるからね」

 にべもなく答えた彼が、無理に歩いて先に建物へ入っていく。そんな極めてプライベートな過去のことまでわかるのかと呆気にとられていた私も、それを見ていそいそと傘を閉じた。


2018年1月2日

▲  ▼
[戻る]