[携帯モード] [URL送信]

見上げた空のパラドックス
18 ―side Chitose―

 けたたましい金属音がじめじめとした牢に響き渡った。
 雨は閉塞した牢内の温度をも着実に下げてきている。そうも周囲の環境が変わっていれども、鎖に繋がれた彼女は相も変わらずそこで無機物のようにじっと佇んでいる。その視線が、扉の開閉音に驚いてわずかに持ち上げられる。そうして青く澄んだ目で私達の姿を捉えると、こんにちは、と言った。
 ――命になり損ねた有機化合物。
 僕は内心で彼女をそう呼んでいる。同じような奴が部下にいるにはいるのだが、奴よりもなお彼女は無生物に近いと感じたからだ。
 東京大火災当時、灰野に命じて彼女を拾いに行かせたとき。彼女は焼け焦げた死体と瓦礫の中でただ一人、無傷で、無表情で、佇んでいたのだという。火はおおかた静まっていて、彼女が囚われていた区画も全焼していて、そこで生きている者はじぶんだけのような錯覚にとらわれたのだと。
 何せ、彼女は呼吸をすることもまばたきをすることもままならなかった。言葉を話さず、息をせず、まばたきをしない。それが生物であるなどとどうして言えるだろう。あとから、それが脳に留まった弾丸のせいだとわかったのだが。傷痕がないうえ、たとえいくつの弾丸を腹に抱えていても質量が変わらないから、彼女の怪我は外からわかりにくい。
 灰野は自分の意思では動いてくれない彼女を車に積み込み、持って帰ってきた。僕は彼女を一目見て、彼女の肉体に何が起きているかをあらかた見抜き、早急に医療班に預け、弾丸や虫の死骸やその他のものをすべて摘出させた。前例のないほど長く大変な施術だった。彼女の身体は切り開けないからだ。とりわけ最後の、頭蓋の内側に入り込んだ弾丸は厄介だった。施術が済んでしばらくは、医療班の心が壊れぬよう付き添いに追われた。僕はカウンセラーじゃねえよ、なんて文句は誰にも言わないが。
 彼女がヒューマニティを取り戻した瞬間は忘れられない。我が子がはじめて言葉を話したときの感覚をもっと深刻化するとあんな感じだろうか。
 彼女が僕らを目にしてはじめて彩ったヒューマニティは、恐怖だった。人が近くにいるというだけで怖いらしく、縮こまって身を震わせたのだ。名前を聞けたのはまた数日してからで、灰野に対してのみ少しは落ち着いて話せるようだった。前の世界で同じ人と話したことがあるからだ、とのちに語られる。
 僕は、そこに、強烈にふみの面影を見た。暗い倉庫で膝を抱えて小さな声で話した、あの姿が脳裏に浮かんできた。灰野も同様で、柄にもなく動揺した彼に、彼女は名前を聞き返した。そこで苗字のみを名乗ったのは、灰野の精一杯の自己防衛だったのだろう。
 高瀬青空。彼女は僕らには痛い存在だ。この世界の常識も戦闘技術もからきしだった彼女に、部下と同じく訓練を施した僕は、そのさなかでたびたび郷愁に襲われた。
 そうだ。今だってそうなのだ。
 いつの間にか二人が僕を見ていた。どうかしましたか、と問うたのは例によって高瀬で、圭のほうは僕の挙動を分析すべく考えを巡らせている。

「いや。なんでもない。お望みのブツを届けにきたんだ」
「あ、……ありがとうございます」

 穏やかに笑んだ。出逢った頃の彼女からは想像もできない姿だ。圭が、身動きのとれない高瀬の隣に、青のリボンを置いた。高瀬は丁寧に畳まれたそれを数秒見つめ、またありがとうと繰り返した。間に合わずに迎えが来たらどうしようかと思いました、と。

「まだ来ないよ。あとちょっとかな。もうファリアではかくまってやれないが、バイヤーは確保してある」
「……どういうところへ?」
「まあ……ここよりはましな暮らしができるかな。たぶんだが」

 彼女は不思議そうにして黙る。そんな仕草まで似ているのだから勘弁していただきたいものだが、もうすぐこの顔を見なくて済むようになるのだと思えば気が楽だった。
 彼女の買い手――言ってはなんだが頭のいかれた奴だ。僕でさえ理解がままならないくらい良くも悪くもいかれている。育つ環境的に仕方がない、などとは言えない。何せ、育ちはふみと同じく二課なのだ。
 久本晶。
 彼の名をここで出す訳にもいかないから曖昧に言ったが、彼女は幸いそれで納得したようだった。ひとつ頷いて、彼女はまた違ったことを切り出す。

「あの」
「ん?」
「……できれば。あなた方に、お礼がしたかったんですけど。最初から最後まで、お世話になりっぱなしで」

 穏やかな笑みのまま告がれた言葉に、ついに僕は、折れた。
 彼女のことは心底苦手だ。圭も彼女を苦手と言うが、たぶんそれよりよほど深刻に苦手意識がある。絶望の渦中で、子供の洞察を失わずに、まっすぐすべてを見ている目が苦手だ。ふみには得られなかったそれを、たかが数ヵ月の苛烈な被虐によってあっけなく手にした強さが苦手だ。そのわりに誰にも敬語を使うことで人を避けている臆病さが苦手だ。
 僕はそれらにただ圧倒された。ある種の畏怖を覚えた。だから、口にしてはならないことを口にした。

「それなら気にするな。……君が僕らの元に来てくれたことに比べたら、とても小さなことだから」

 くそ、と思う。表面では落ち着いた風を装う僕だが、調子はすこぶる狂っている。隣でやたら鋭くこっちを見ている圭に何も悟らせぬよう必死だ。
 感知系には定められた禁忌がいくつかあった。嘘を吹聴しないこと。解き明かされていない摂理を口にしないこと。未来を誰にも教えないこと。僕はたびたびそれらに背いてしまう。たぶんだが、弱い方なのだ、心が。

「どうして?」
「じきにわかるよ」

 さあ逃げ出そうと心に決めた。これ以上自分の墓穴を掘ったらいけない。
 踵を返し、それじゃあまた、と言って扉を押し開ける。その背後で、最初から最後まで何も言わなかった圭が、一言だけさようならとつぶやくのが聞こえる。さようなら、久本さん。お元気で。その返答を背にして僕は牢を出た。後を圭が追ってきて、扉を閉める。また耳障りな金属音が反響する。
 ぐわんぐわんと煩いフロアを抜けてから、二人して息をついた。高瀬への苦手意識は、ベクトルの差こそあれ僕らに共通しているのだ。ようは純真すぎるのだと思う。戦場で爆弾の雨をかいくぐり育った僕らにとって、平和な共和制社会において健やかな倫理を教育されてきた彼女は。
 僕が焦った心を落ち着かせている傍ら、圭がようやく口を開く。

「……珍しいですね。あんなに、動揺するなんて……」
「あちゃあ、ばれた?」
「高瀬さんと……どういう関係ですか。いったい、どこで面識が?」
「そもそも僕が拾ったんだ。市場にいた彼奴を。そんで、入軍前に戦闘のなんたるかを叩き込んだ」
「え、それ、って」

 異能者とわかっていて組織に?
 彼女が続けずともわかる。僕は軽く頷いてみせ、

「僕らの目的は異能者を殺すことじゃあないからね」
「……いいんですか……そんな簡単に、情報を明かしてしまって」
「かまわないさ。君が国に僕らのことを報告できる日は来ないから」
「……」

 赤みを帯びたどこか光のない目で、じっとりと睨まれる。いつも思うことだがなんたる凄みだろう。僕でもあんなに殺気は出せない。
 女の子は怖いなあ。

「……それなら、聞きますけど……。あなたは裏切っているんですよね。特諜を」
「心外だなあ。特諜にはめちゃくちゃ貢献してる。むしろ、僕がいなきゃ滅ぶよ」

 過去の事実を言うぶんには臆面もない。
 対策案第一実験日の虐殺からこのかた、特諜にはあまりにも人がいないのだ。あの日、外に出ていた諜報員らは無事だったが、他のあらゆる人員の不足は深刻である。本来の特諜が担うべき国際的な情報戦は、いま現在、ほとんど僕一人に任せられている。今の特諜が自然に崩壊しないのは、ひとえに対策案に関する情報を守るため――つまり、勝手に情報を持って逃げ出した久本晶と灰野誠也を確保ないしは監視するために他ならない。必要なのだ。
 圭はよく考えるし、考えすぎる。だから察しも早いし早とちりもする。その彼女が、今回はどうやら冴えているらしい。仕事のときの口調で、僕に対峙した。きっと、高瀬という弱味を見せすぎたせいだ。ここぞとばかりにつけこむ気なのだ。

「それじゃあ……特諜を仕切っているのも……ファリアを仕切っているのも、あなたじゃないですか。灰野の言えなかったことを、あなたが言ったんですから」
「そうだね」
「……目的はなんですか。私を……プロトタイプをファリアに寄越した目的は。高瀬さんと私を組ませた目的は」

 ちょうど宿舎の扉の前。僕はノブに手をかけ、押し開けながら振り返った。彼女はまた考え込むような沈んだ表情でこちらを見ている。
 僕には見えていることが、彼女にはどうしても見えないらしい。灯台もと暗し。彼女のなかにしかその答えはないというのに。
 笑ってしまった。
 彼女は今度こそ怪訝そうに眉をひそめる。
 そして、その顔が、視界のなかで急に傾いて、すべてが見えなくなった。


2017年12月28日

▲  ▼
[戻る]