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見上げた空のパラドックス
永久保存































 見事な夕闇の中にいるのに、俺がいくら辺りを見回しても沈みかけた太陽の姿はなかった。そもそも太陽の沈める地上すらないここには、茜色の紅霞を彩る朱い空と雲しかない。ずいぶんと変な場所。しかし、とてもうつくしい場所だった。
 ああ、すごいな。
 純粋な感嘆から息を漏らした。
 一歩、二歩、歩く。夏物の学生服姿のまま、俺は悠久の空のなかをたった一人でいる。そのことに寂しさを覚えるよりも、邪魔者のないこの景色の壮大さがいとおしい。拡散する茜色。あたたかくもつめたくもない静寂。ここが死後の世界なら、おそらくは死んでしまった俺の人生に文句などないのだろう。文句はないが、ただ、一つだけ心配事があって、俺は一人問いを紡ぐ。

「……青空は?」

 三歩目。朱色の光以外にはなにもない空間に足を踏み出す。

「青空は無事か? ちゃんと避難、できたか?」

 一見するとなにもない空間、だがなぜか問いは届くだろうと思えた。誰かがいる、見られているような感覚があった。俺の問いかけに“彼”は律儀にも答えてくれる。

「そうだね──」

 若い、少女のような少年のような声音が耳をつく。柔らかな優しさを含み、寂しげな自虐の色を含み、老人のようにどこまでも達観した感情を含んだ、そんな声。

「ぼくが答えていいのかはわからないけれど、少なくとも、避難はできなかった」
「……そうか。俺、守れなかったんだな」

 ぽつりと呟く。あんな大立ち回りやら恥ずかしい言動やらかましておいて守れなかったなんて、俺は一体何をやっていたんだか。そう思うと少し、やりきれない気分になる。青空は、あの焔を目にして、泣いたまま逝ったのだろうか。あんな辛そうな目をしたまま死なせてしまったのだろうか。

「いや。きみたちは二人とも、まだ生きているよ」

 声は俺の思考を見透かしたように決然とそう続けた。

「え、死んだんじゃないのか?」
「死んだ方がよかった?」
「なわけ。じゃあ、他のみんなは? みんなもどっかで生きてるか?」
「きみがここにいるということの意味を考えてごらん。ここは、宇宙の外側だ」

 改めて辺りを見回した。ぐちゃぐちゃの物理法則。見当たらない天体。確かに地球上っぽくはない。

「きみの暮らしていた世界は、とっくに消失しているよ」
「…………そうか」
「疑わないんだね」
「地面見えないもんなあ。こんなとこで嘘吐かれても、どうせ俺にはわかんないし、しょうがねえって」
「話が早い。ひとつだけ伝えにきたんだ、聞いてくれ」

 声はやわらかな響きのまま続き、

「きみたちは、不老不死だ」

 さらさらと。歌うように理解しがたい台詞を吐いた。いや、言葉の意味はわかるのだが、それを自身の現状と結びつけることが難しい。不老不死。俺は漫画も読む方じゃないからあんまりピンと来ない。

「なんだ、こっちは信じてないみたいだね」
「普通信じないだろ。証拠ないし」
「そうだね。でも、残念ながら本当だ。ここで舌でも噛んでみればいい」
「マジで言ってる? 頭、大丈夫?」
「ひどいな。まあ、ぼくの頭が大丈夫かは保障できないけれど、ちゃんとマジだよ」

 声は持ち主の姿を見せないまま、少し寂しげな色を保って少し楽しそうにする。変な奴だなと思う。心にすっと溶け込むようでいてつめたい、相反したすべての感情を、その口調からは感じられるようで。
 確かに嘘つきには思えない。が、すぐに信じられるものでもないじゃん。

「え、でもさあ。マジだったとして、俺もしかしてここにずっといるのか? 死なないままずーっと、こんな何もないとこに? それってすげー暇じゃない? きっとそのうち気が狂うよ、やばいやばい」
「……そうかもね」
「お前さっき、青空もまだ生きてるって言ったよな? 青空は今どうしてんの? 俺とおんなじか? 会う方法はあるか?」
「少し落ち着いて。ぼくも、なんでも答えられるわけじゃない」
「だって」

 とにかく心配だ。
 青空なら。あのままの青空がまだ生きているなら。きっとまた一人で心を蝕み続けるのだろう。死ねないなら尚更のこと、一人で考え込んで、より深みへと果てしなく堕ちていくだろう。
 もしもそれが俺達二人だけの特例だと言うなら、俺は、できることならリベンジしたい。一度目は彼女を救えなかったから。いや、そんな偉そうなことじゃないんだ。ただまた会って、いつか、青空と心から笑って話してみたい。
 姿のない彼と睨みあう。そんな曖昧な静寂が、しばらくを過ぎた。

 くすっと、彼はかすかに笑ったような気配を見せる。

「きみなら大丈夫そう、かな」

 囁くような声音は暖かな光に満ちた。

 唐突に襲いくる浮遊感。
 落下する。まばゆい朱い光が過ぎて、目の前は真っ暗になる。

 そして俺は直感的に理解した。次にこの両足が地についたとき、そこが俺の知らない何処かであることを。この停止した魂が何処かへ強く引っ張られていることを。きっと、そこには──

「行っておいで」
「いいのか?」
「後悔しないなら」

 しないさ。
 なんたってもう死んだつもりなんだ。故郷とも家族とも友人とも死別した。もう、うしなうものは何もないだろ。
 それなら向かうべきは一つだ。
 死に際の、自身の願いを叶えるために。ひたすらに俺のために自己中に。絶対に後悔しないように。
 行こう。


2016年1月30日 2022年10月2日

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