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見上げた空のパラドックス
選択
 青い……。

 と、思った。意識が溶けてしまうまでのほんの一瞬だけ、確かに思った。
 それは私やあなたや誰かが見たいちばん鮮烈な青だった。空であり海であり大気であり水であり、でもやっぱり私には空であるように見えた。太陽も月も星も地面すらも見当たらないけれど、からっぽで遠く明るく、何より雲が泳いでいるから。夏が終わって冷え込んだ空気を吸って吐くとき見上げる白だ。子どもが絵に描いたようにやわらかそうに膨らんで、絶対の静寂を風のないまま悠然と棚引く。スコール直前の晴天のまま静止した無限のゆめ。
 青と白以外のぜんぶを忘れた。たゆたい、見て、見つめて、いつしか私が私であったことの一欠片も意識しないほどに見入って、存在はたちまち境界をなくした。呼吸も脈拍も透明になっていった。
 死んだのだろう。私は。
 永い静寂に色彩だけを憶えて、目を閉じることも息をすることも、思い出すことも想うこともなく。うつくしい景色のあいだに溶けて消えるだけ。これが終わりなら世界は案外やさしい。
 もう名前はいらなかった。
 澄んでいく。

























「やあ。まだ残っているんだね」

 ――思い出した。

 静けさが破られたのがいつだったのか誰にもわからない。けれどもその声は、聴こえた。とっくに存在を手放していた私に、うしなって久しい耳に脳に心に、確かに聴こえて、聴こえてしまったからどうしようもなく思い出した。目を見開く。まばたきをする。血流のめぐるおとが絶対の静寂を切り裂いて、二度とは還してくれないようだ。ごうごうと存在が鳴り響く。どうしてと思う。私はもうどこにもいない、それが正しくて、それでよかったのに。

「あ、もしかして寝てた? ごめんね起こしちゃって。ていうか、聞こえてる?」

 上も下もないのにわけもなく身体を起こした。辺りをきょろきょろ見回すけれど声の主らしい姿はなく、どちらを向いても変わらず青と白ばかり続いている。

「ああごめんね。姿はないんだけど。ぼくのことはあんまり気にしなくていいから」
「……あなたはだれ……?」

 自分の喉が震えたことに自分でちょっとおどろく。まだ話せるのか、私。身体は存外すんなりと意思のとおりに動く。

「わからない。だからどうか気にしないでくれ」
「……」
「どうだろう、きみは、記憶は確か? この状況に心当たりは……、ないよね、きっと」

 声はさらさらとして朗らかで、少女のようでも少年のようでもあった。

「さて、きみの状況を伝えるよ。なぜかというと……きみがここに留まることを選び続けるかぎり、これはきっとぼくにしか伝えられないことで、なによりきみはまだ死んでいないから。まあ、うん、お節介だとは思うんだけど、一応ね」

 よくしゃべるなあ、とだけ思った。

「きみをあらわす時間が、止まってしまっている。ここにきみがやって来た時点からずっと」

 声はそう告げた。はっきりと、おとの一つ一つを丁寧になぞるようにして。しかし曖昧な言葉はうまく耳に入らず、寝惚けた意識の上を滑っていく。

「……なにを、言っているの?」
「そうだなあ。具体的に言えば、きみはその姿でその体力でその性格でその感情のまま、永久に変われず、永久に死ねない、ってことだ。現状」

 姿と言われて思わず自分の身体を見下ろす。焦げや煤にまみれて薄汚れた夏物のセーラー服、太くも細くもない肢体。左耳に何かの感触があって、触れてみれば髪飾りにリボンを結わいているらしい。髪は襟足で途切れていて短い。鏡がないから顔はわからない。
 そのまま永久に変われず死ねない、という言葉を何度か反芻してみて、不老不死という単語に思い当たってやっとひとまず理解する。
 ……私がか?
 そんな突拍子もないことをさらさらと語られてもな。

「時間が止まること自体は、滅びに近い世界ではめずらしくない。けれど一人の人間にここまで強く永く静止がかかっているのはぼくも初めて見たんだ。原因も、直しかたも、まだわからない。探ってみているけれどあまり期待はしないでほしい」

 ずいぶん穴だらけでごちゃごちゃしているからね、世界って。声はそう続けた。とても悲しげなひびきで。

「……わからないよ」
「そうだろうね」
「ねえ、あなたは誰で、どうして私のことを知っていて、私に話しかけて……わざわざ私のために、何かを知ろうとしているの?」

 こんな、何もないところで?

「そんなの、ただの暇潰しだよ」

 くす、と笑うような声がした。
 暇潰しか、そうか。やけに納得してうなづく。声の主がもしもこの無限の心象風景に暮らしていて、ずっと存在を手放せず意識を持っているのなら、なるほどいつかは退屈するのかもしれない。私の状態がちょっとめずらしくて面白いから声をかけたわけか。

「それじゃ、起こして悪かったね。ぼくはもう行こうかな。おやすみ、青空」
「……、待って」

 そら。
 名前だ。私の。
 認識し、刹那、稲妻のように存在が戻ってくる。身体機能だけではない。ふわふわと微睡みに霧散していた心のかたちまでもが収束する。記憶はまだ曖昧ながら確信が心臓を打つ。焦燥。自責。希死。切望。

「名前、どうして」
「だって。きみは生きているのだから。そう易々と忘れちゃいけないよ、名前は」
「私、まだ生きてるのっ……?」
「うん、生きてる」
「うそ。どう、すればいい? どうすれば、私は、」

 償わなければならない、大きな罪があるはずだった。
 愛しいひとがいたはずだった。恋に泣いていたはずだった。
 死を望んでいたはずだった。絶望していたはずだった。
 なんにしろ、こんなところでぼんやりしている暇は、私には、ないんじゃなかったっけ……?

 声はしばらく黙って、そして何かを諦めたように、ふふ、と笑った。

「そうだね。どうしても何かをしたいと思うのなら、立って、歩いて、見えるものに触れてごらん。嫌になったらまたここで眠ればいい。きみが忘れてしまったら、また名前を呼ぶよ。……ぼくはできれば行かないことをお勧めするけれどね」

 わからない。わからないままでも立ち上がり、青のさなかを歩き出す。ちょうど大きな真白の雲が迫っている。きっと数分も歩けば、そこにたどり着くだろうとわかった。

「……行くの?」

 諦めと不安と静けさを含んだ声に、私はただ一つ、頷いて。

「私は、人間だから」

 そう思いたいだけだよ。
 雲の中。白の回廊を落ちる。ひたすらに、どこまでも深く落ちていく。そういえば、と今さら考える。私がまだ死んでいないのなら、この空は死後の世界だとかそういうのではなかったことになる。じゃあ、何? この空間は。ここにいた私は。

「本当に、ごめんね」
「……どうして?」
「いつかきみが何かを恨むのなら、対象はぼくにしておいてほしい」

 重力に身を任せ目を閉じる。
 『また』、忘れていく。


2016年1月24日 2022年10月1日

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