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見上げた空のパラドックス


 夕陽のひかりが目に入らぬよううつむいている。濡れた墓石は黒々と影に落ちて、嗅ぎ慣れた線香のにおいがして、遠くで夕刻を告げる蝉が鳴いている。短く切ったばかりの髪を夏風が浚っていく。変わらず結わいている青いリボンが揺れて、癖づいたまま片手で押さえる。
 倖貴の葬儀には出なかった。ご両親からお誘いはあったけれど頑なに断った。ただ火葬場の外から細い煙の棚引きを見つめるだけだった。当然でしょう、私に泣いて祈る資格はないよ。悲哀も憐憫も加害者が抱くにはずれている。本当はこのリボンをまだつけていることにだって、いいとは思えない。
 私が殺したのだから。
 それでもどうしても外せなかった。触れる癖が直らない。

「………………」

 なにも言わず。
 ただなにも言わずに。できる限り毎日、何かに取り憑かれたように墓参をした。花を握る手は冷たくて、呼吸はもうずっと落ちつき払ったままで。じっとうつむいていれば腹の底から沸き上がる言葉はひとつだ。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。言ったところでどうなる。倖貴はもういない。このまま抱えろ、そうして償う以外に何ができるというのだろうか。
 中学受験は真面目にやって、幸い無事に入学できて、ちゃんと毎日学校へ通って、なんなら部活だって真面目にやっている。私は大丈夫、普通にぼちぼち幸せだ、そう胸を張って言えるようにすることもまた使命だった。周囲に余計な心配をかけても罪悪感がまた重たくなるだけだ。
 心が弾むことはない。賑やかな場に身を置いても言葉が出てこない。足取りが重い。指先は冷たい。だからなに。ほら、こんなに普通に幸せな生活ができてるんだよ。部活は陸上部に入った。体を動かすことは昔から好きだったし、走っていると何も考えなくて済んで頭がすっきりする。息が苦しくなればなるほど安堵した。火葬場の煙を見つめたあの時の自分の異様な落ち着きを否定したかった。私はまだまともに悲しめるのだと錯覚したかった。
 学校は普通なら自転車通学を選ぶだろう程度には遠いけれど、そのまま朝練出るからと言ってジャージで家を出て走って向かう。学校から花屋を経由して墓地へ向かうときも、雨でなければ毎日そうしている。ほら、元気だよ。自分の汗だけが墓地の砂利へ垂れて染みていった。涙したことはない。

「……それじゃあ、今日は、もう帰るね」

 平坦な声しか出なくなっていた。抑揚の薄い、どこか無感情な。
 夕陽に朱く落とされていく墓地を一人ざくざく歩く。正門前で墓石の群れに向かって一礼して、道へ出たら少しだけ早歩き、あとは家までひたすら走る。息が上がっていく。苦しいままでいようとだけ、思う。
 何が言いたいかって、生活は順風満帆だ、ということだ。

 考えていた。火災が起きた瞬間のことを。
 いつも通りだった。本当に直前までなんの問題も前触れもなかった。ガスが漏れていたわけでも燃えやすいものがコンロの近くにあったわけでもなかった。しかし事実として焔はとつぜん一瞬にして津名戸家の広々としたリビングダイニングを覆い尽くした。逃げ走る間も、振り返りはしなかったけれど、確かに焔はとてつもない速さで拡がっていた。
 何が起きていたのか。
 考えているうちに気づいた。なぜだろう、私には目に見えていなくても焔のありかや規模がわかるようだった。喫煙室の脇を通りかかったとき、飲食店のテーブル席にいるとき。なんとなくわかるとしか言いようがないのだけど。
 気づけば後は早かった。
 意識すると火を起こせる。種も仕掛けもなく、願うだけで、ほとんど自在に。
 自分の起こした火で怖くなってうずくまってしまうのだから馬鹿げた力だ。
 けれどわからないままは怖いから、一人のときに限って少しずつ戯れた。また誰かを傷つけないよう慎重に、とはいえ自分で怖くなるからすぐに消す。そうするといつも体温が持っていかれたみたいに寒さを感じる。
 誰にも何も言わなかった。ただ明白になっただけだ。あの火災は、私の力で、私の不注意によって引き起こされた。他に考えられない。
 次にいつ暴走してしまうか怯えながら、灯して消す練習だけ続けている。

 朝陽に顔を背け、夕陽に目を瞑り、寝て起きてごはんを食べて学校へ走って授業を受けて部活をして花を買って墓参をして帰ってお風呂に入って夕飯を食べて宿題をして眠る。不意に朱を目にすれば息が詰まって膝が笑って逃げ出す。罪を重ねることも思い出すことも怖かった。まっさらな無心の静寂と恐怖症を繰り返していつまでも朝が来て日が落ちる。ある夏の日、呆然と目覚め、かすんだ自室の天井につぶやく。

「死にたい……」

 いつの間にかふと気がつけば死に方ばかり考えている。おかしいな。もっと他に想うべきものがあるはずだ。もっと他にすべきことが今日も明日も明後日もある。学校に行かなくてはならない。食事をしなくてはならない。眠らなくてはならない。余計なことを考えていられるほど暇ではない。息が苦しい。息が苦しい。安心する。まだ悲しめているのだろうか。私はまだ普通の人間であれるだろうか。
 破綻したまま走り続けた。朝練を終えて制服に着替えて、いつも通り席に座ってホームルームを受けた。終末は唐突にやって来た。

 大切なものを二度とうしないたくないから、焔を、朱を見るのが怖かった。







 次に目を覚ましたとき視界を覆い尽くした色が一面の青だったことを幸いに思う。


2022年10月1日

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