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見上げた空のパラドックス
1 ―side Kei―

 朝方。
 誰より早く目覚めても、下に眠っていたはずの高瀬さんがいないので、訝りつつも私はひとまず彼女のベッドに触れた。そこに暖かさはなく、彼女がいなくなってからけっこう時間は経っていることを物語る。私は、眉をひそめ、手早く服を纏い、顔を洗って、そろりそろりと活気づき始めた宿舎を出る。
 その宿舎裏から、今まさに探していた高瀬さんが歩いてくるのが見えた。昨日のままの格好で、少しだけ疲れたような顔をして、ふらふらと。じっと見つめていると、さすがに高瀬さんもこちらに気づいて視線を上げる。ふっといつも通りに笑って駆け寄ってきた彼女から、血や硝煙の臭いはしない。強いて言うなら、ちょっと砂埃に汚れている。とりあえず、私は彼女に向かって会釈をした。

「おはようございます、久本さん。ご心配おかけしてしまいましたか?」
「……いいえ」

 心配は、正直していません。私は高瀬さんがなにか不正行為をしていたのではないかと疑っています。そんなこと口にはしないのだけれど。
 疑うに足る理由は簡単だ。私自身、同じことをやっていた時期があったから。それも、この組織に加入する直前まで。つい数ヵ月前である。
 つい考え込んでしまった私に高瀬さんは行きましょうかと声をかける。私が頷くと、彼女は古びた宿舎へと足を急かしてゆく。
 部屋に戻って彼女が身支度を終える。いつも内ポケットに持っている青いリボンのことを、彼女はひとことも話したことがない。想像はつく。きっと誰かの遺品とか、そんなところだろう。私も髪を結い、いつも血避けに羽織っている上着を着込む。その格好で、最低限の武装は済ませてから私達は食堂へ向かう。

「高瀬さん、夜、……どうしたんですか?」

 道中、いっそと尋ねてしまうと、彼女は困ったような笑みをその顔に貼り付けた。

「やっぱり、怪しんでましたか? 大丈夫ですよ。何て言うのかな……夜抜け出して、自主訓練しているだけなんです。私、弱いですから」
「訓練……ですか」
「恥ずかしいから内緒ですよ?」

 やんわりとした口調で言い、高瀬さんは誤魔化すように目前に迫っていた食堂へせかせかと先に踏み入る。その小さな背を、私はちょっと首を捻りながら見て……どうやら類が友を呼んではいないらしいことに安堵ともわからぬ息をついた。
 食堂はまだ閑散としている。空が白みだしたばかりの今は、まだ起き出していない人も多い。しかし、それでも既に起き出して食事の用意に勤しんでいる者が何人かはいることを、私達は知っていた。衛生環境はこの時世を考えればよく、部屋の広さは10人には事足りるけれど20人には足りない程度の空間――煤の香りが薄いそこには、あくせくと働く少年や少女の姿がある。高瀬さんよりももっと幼い子供たちだ。彼らは大人と比べ体力が劣り、戦えないぶん、それ以外のこうした仕事に駆り出されている。だから、その立場はとても弱くて、一般の兵からはしばしば睨まれているのだけれど、こちらに駆り出された彼らはまだまだ幸福者だ。高瀬さん同様、幼少から戦地を駆け、死んでいく人だって多くいるから。
 それなのに、高瀬さんは彼らを哀れんでいた。毎朝彼らと同じ時間に起き出し、手伝わないまでも彼らの仕事のミスをこっそりとフォローして回り、決して彼らを見下さずに敬語で接する。そんな彼女を彼らは好いているらしく、彼女の姿を見ると、かすかに安心したように顔をほころばせる。
 高瀬さん、つくづく変わった人です。
 私は流れと成り行きで彼女に同行しているけれど、賛同することも口を挟むこともない。端に腰掛けてぼんやりと彼女を観察している。変わった人、怪しい人だから。彼女とは入軍時期が近く、ずっとパートナーとして戦っているのだけど、不可解に思える事柄はいっこうに消えないのだ。まさに生きてきた世界が違うように、会話が噛み合わないこともしょっちゅうある。端的に言って常識がない。変わっている。それなのにどうも度胸だけは有り余っている。
 いつものように彼女の様子を眺める。その向こうで働く子供たちを見つめる。ふいに、幼い少女が木の皿を落としてしまった。慌てて拾う、その顔は蒼白で、運ぶ足取りも弱々しい。見かねた高瀬さんが彼女に声をかけた。身体、どうかしましたか? 少女はすかさず勢いよく否定したのだが、それがよくなかった。気を張っていたのが緩んだらしく、そのまま脱力し、踞ってしまう。膝が震えている。ここに来てから目にする光景としては珍しく、栄養失調のようだ。
 体調を崩した子供を治すような余裕がここにはない。働けなくなった彼女は今日にも安楽死を選ぶか、特攻を命ぜられるか、もし異能者であれば市場に売り出されるだろう。そんな少女に、高瀬さんが笑いかける。

「治しましょう、和美さん」
「……え?」

 高瀬さんの目付きが変わる。穏やかさより強さを増したその目で彼女が何をしようとしているか、私はなんとなく察して驚いた。高瀬さんは私をちらりと見、それから顔の前に人指し指を立てる。私はしばし迷ってからとりあえずと頷いてみせる。ありがとうと言う風に軽く会釈した高瀬さんは少女に向き直り。

「失礼しますね」

 少女の肩に手を触れ、その青い目を閉じる。
 ああ、彼女と出会って二月経つけれどはじめて見た。やっぱり彼女も異能者か。だろうと思っていたので驚きはない。淡々と観て、想念系で且つ反動が強く、医療に向く力なんだな、と判断する。
 すぐに変化は現れた。何かを感じ取ったのか少女の大きな両目が驚きに見開かれ、言うべき言葉を探すように唇がわなないた。高瀬さんは何も言わず、やがて数分して手を離す。その間に、少女の足元はいつの間にやらふらつかなくなっていた。
 何をしたのだろう?
 わからないで私はまた首を捻り、立ち上がって、顔色を悪くした高瀬さんの元へ近寄ってみる。
 高瀬さん、その顔色では今日の任務に出られないのではないでしょうか。そう危惧して覚束ない足取りを支えると、高瀬さんは力なく貼り付けたままの笑みを私に向けた。

「こればっかりは本当に内密にお願いします」
「構いませんけど、体調は……?」
「平気です。任務までには治ります」
「よかった。何をしたんですか?」
「少し水と糖を投与しました」
「…………そうですか」

 高瀬さんは私を信用しているのか、していないのか。わからないけれど、とにかく彼女は私の目の前で力を使うことを厭わなかった。人前で力を使うなど自殺行為だのに。なんにしても彼女は度胸だけは有り余っている。あたりまえに軽々しく、命を懸けるようなことを行うのだ。何故? ――死なないからだ、きっと。
 羨ましいと思う。しかし、そのような行為を繰り返されては私にも被害が及びかねないから、もう一度念を押しておくことにする。

「高瀬さん……そういうの、慎んでくださいね」
「わかっていますよ。でも、だれかの命に代えられるものはありません」
「……どうなっても、知りませんから」
「もちろんです。私の責任は、私に」

 苦笑しながら、高瀬さんはすぐさま答えた。


2017年1月31日
2017年10月25日

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