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見上げた空のパラドックス
喪失

 好きな人がいた。
 名を津名戸倖貴(つなとこうき)といって、私より五つ年上の幼馴染だった。

「高瀬です、お邪魔しまーす!」

 がさがさ、右手に重みが鳴った。津名戸家の玄関は今日も施錠されておらず、私が勝手に入ってもいいことになっている。靴を揃えて玄関を抜けて、廊下を通って広々としたリビングダイニングへ。一人でいるには広すぎるこの家の間取りはとっくに体になじんで気にならない。少し遅れて倖貴が二階の私室から降りてきて、何気ないままお疲れと言う。何か挨拶を返す前に彼が私の手から袋をかっさらって、持ち込んだ食材を見る間に冷蔵庫へ収納していく。二人、さらさらと過ぎていく、日常のリズムで息をしている。

「ありがと倖貴。ごはん出来たら呼ぶから上で課題進めててもいいよ?」
「いとくよ。今日そんな迫ってないし」
「やった!」

 慣れた動線にしたがってキッチンに立つ。私専用のエプロンがすぐ脇の壁にかかっている。倖貴はおとなしく背後のダイニングテーブルに着いて手元の教科書を開いた。結局やるんじゃんお勉強。まな板とお鍋を取り出しながら言うと、彼は本から顔をあげて、だって、と続ける。そろそろ数学とかきつくなってきてさあ。そうなんだ。会話が始まる。振り向けば目が合う。彼はいつも私の目をまっすぐに見つめるから、照れくさくなってこちらから逸らす。とかく今日もご飯を作らなくては。エプロンの紐をぎゅっと縛った。
 私はたびたびこうして倖貴の家へ夕食を作りに来ている。というのもご両親のお仕事の都合だとか倖貴が対人恐怖症でお買い物に行けないだとかいろんなことがあってそうなったのだけど、なんてゴタゴタはもう数年前の話で、今となっては私が彼に会いたいから料理を口実にしていると言うほうが正しいのだろう。
 11歳の秋。私は小学六年生、倖貴は高専の一年生だ。彼はいっつも宿題に追われていて大変そうで、彼の受験期からそうだったけれど会える機会がめっきり無くなってしまっていて、私はこのところちょっとさみしい。でもこうしてたまにキッチンに立つとなるべくおしゃべりに付き合おうとしてくれるから、やっぱりうれしい。そういう感じだ。

「私もお勉強頑張らなきゃなあ、もうそろ受験だし……」
「え、じゃあ食ったらちょっとやってく? 教えるけど」
「え! いいの? 最近忙しいんじゃ……?」
「忙しくないってば」
「あ、ぜったいうそだ。あんま寝てない顔してるもん」
「気のせいだって」
「私、倖貴が忙しいのに邪魔はしたくないよ」
「俺は青空が受験すんなら受かってほしいし、できれば勉強も見たいけど?」
「え、えー……? じゃあ、ちょっとだけ」
「うん」

 意地の張り合いで彼に勝てることはない。惚れた弱みだ。
 炒め物をしながらフライパンを軽く振る、と頭の後ろで髪飾りが揺れた。倖貴が今年の私の誕生日にくれた青色のリボンだ。もう十ヶ月も毎日かならずつけているのに、未だにリボンを意識するだけでちょっと落ち着かない気がするのだから、おのれが単純で困ってしまう。
 鼓動の逸りがばれないようにと祈りながら、なんでもないことや大切なことを話して交わして、姿が見たくてうかがえば視線がぶつかって逸らして、いつも通り、いつもよりも幸せに。

 ──私はこの日までは、確かに、まともに、生きていたんだ。



 それは不可思議な現象。
 焔が燃え広がるのは文字通り一瞬だった。たった一瞬、そう、たぶん一秒もなかった。平和を彩っていた蒼い焔は一瞬にして朱く朱く染まって拡大し、室内を這いずり回る。煙よりも焔の方が速い。
 驚いたなんてものではなく、でいうか咄嗟には理解なんてできない。私は、熱さと目の乾きを感じて数秒もしてからやっと、視界に揺らめくその色を焔だと解して。解したけれども経験のない非常事態に硬直したままで。

 熱い、熱い、熱い。

 火事と呼ぶには勢いがよく爆発と呼ぶには緩やかな大炎上を前に立ちすくんだ。室内は一面が朱に照らされ燃え上がり、視界がぼぅっと滲む。でも、そこに、同じく硬直して動けない倖貴の姿が映って。
 彼を連れて逃げろと、本能が云う。

「倖貴、立って」

 いやに冷静な自分の声は渇いてかすれていたが、彼にも現状理解をさせるにはなんとか値したようだった。床を転がるようにしてふたり、身一つで外に出る。通報できる余裕も機器も手元にはなく、大声をあげようにも喉はからからで、私達は逃げることだけに取り憑かれてひたすらに走った。ずっと走った。なぜだろう、頭が重い。目が霞む。身体中がだるい。そして――寒い。あんなに熱い焔に触れたはずなのに。おかしいな。息が苦しい。それでも走るしかなかった。あの火はまだあの速度で広がっている、すぐこっちへくる、なぜかそう確信があって。とにかく逃げなくてはと、まだ耳の奥で警鐘が鳴るから。

 だから、何が起こったのか考える暇さえなくて。周りを見る余裕さえ、なくて。私は、何も、見えていなかったから。

「──青空、」

 突如、背中に感じる衝撃。その拍子にアスファルトへ転げた痛み。耳元を掠めた強い風と轟音。そして振り返った眼前の光景に、声も出なかった。
 アスファルトの上。急停止したトラックの耳障りなブレーキ音。その足元、アスファルトの灰色と、


 見てない。
 私は何も見てない。
 何も────
 意外とカラフル。赤。緋。いやピンク。焔によく似た、朱。朱色。橙色とか黄色とか灰色とか白色とか黒色とか。ぷちぷち広がり、もぞもぞ震えて、きらきら光る。綺麗。でもすごく汚い。ひとつの大きな蟲みたいに蠢く。
 見てない。
 何も、見なかった。
 私には何も見えていなかった。

 でも、ただひとつ、理解、したのは。
 私がそのとき、何か重大なものを、たぶん幾つも、喪ってしまったということだ。







 ふと気が付くと病院の待合室。並べられたソファのひとつ、端のほうに座って呆けていた。身体中が冷たく、がたがたと震えている。血の気が引いたまま、いくら震えてもこの身体は当分暖まりそうにない。寒い。まだ秋だ、こんなに震えるようなことはないはずなのに。
 私はどうして病院にいるんだっけ? わからない。わからないけれど、わかる必要性を感じる気力もない。
 ふと、髪を結っている青いリボンにそっと手を触れた。手癖であって精神安定剤。このリボンをもらったときは本当に飛び上がるくらいうれしかったな。幼なじみのわりには互いに誕生日をおめでとうの一言だけで片付けていたから、倖貴からの贈り物はこれが初めてだった。触れて思い出すだけでも慰みに。なる、のだろうか?
 それにしても寒い。ちゃんと空調入ってるのかな。震えが止まらない足を無理に立たせようとするけれど、うまく立たない。力が入らない。

 大丈夫? と私に問う声があった。耳に馴染んだ母の声だと気づいて、私はのろのろとそちらを窺う。今までに見たこともないくらい悲しそうな苦しそうな、心配そうな顔をしている母に、私は素直に状態を伝える気にはなれなかった。目に見えて震えている上に寒いとか立てないとか言ったら、余計に心配させてしまうだろうと思ったから。無理にでも、笑う。

「……大丈夫だよ」

 母は私のその言葉に泣きそうな顔をした。心配させてごめんね。安心させてあげられなくて。
 ともあれ、この状況はなんだろう。なぜ病院にいるのか、なぜ母がそんな様子でいるのか、思考に霞がかかったようにわからなかった。今日は何をしていたっけ? そうだ、いつも通り学校に行ってぐだぐだと授業を受けて友人と喋って笑って帰ってきて、今日は倖貴に会える日だったからお母さんに渡されたお金で食材の買い出しをして夕方には倖貴の家に行って、それで。それで……?

 刹那、認識。

 喉がつかえる。呼吸が数秒、止まる。競り上がってくる吐き気を必死でこらえ、全身に感じる寒さに集中することでやり過ごす。ああ、感じるのが熱さでなくてよかった。焔を思わせるものでなくて、本当に、よかった。
 うまくは思い出せない。何を見て何を聞いてどうやって走ったのか。でも結果は、事実は、残念ながら、わかっていた。
 倖貴が死んだこと。私が殺したに等しい凄惨な死に方でこの世を去ったこと。
 なくなった、とわかった。私が当たり前に大切にしていただろう何かの欠落。穴が空いている。きっと二度とは埋まらず、年月とともに風雨に削られ増大していく、いつかすべてをまっさらに食いつぶそうとする、そんな穴だった。
 身体の震えが止まるのと、私の顔から人間らしい表情が消え去ったのは、たぶん同時。

「……火事は……? 他に、けが人とかは? 死んじゃった人は?」
「いいのよ。あなたはそんなこと気にしないで、今はゆっくり休んで」
「火種は私が起こしたんだよ。消火はできたの? だって、あの火は」
「大丈夫だから」

 だって、おかしいじゃないか。
 いちばん近くで焔を受けた私に火傷がひとつもないなんて。

「ねえ、お母さん、」
「大丈夫だから」

 優しかった両親もそれきり口数を減らした。
 誰も教えてくれなかったけれど噂ですぐに知れた。あの焔による死傷者は、片手の指の数で足りないくらいだった。

 焔の色。朱が……朱が、ただ脳裏に強く焼き付いていた。


2016年1月15日 2022年9月30日

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