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見上げた空のパラドックス
あかし

 たった数ヶ月前には日本をすっぽり覆っていた寒波も、もういずこかへ行ってしまったらしい。今ではじっと立っていても汗ばむような陽気で、少し寝苦しい日々が始まっている。そう、つまり今は7月だ。俺が中学校に入学して初めての中間テストと期末テストを良くはないスコアで乗りきり、早くも一学期がそろそろ終わろうとする時期である。
 それなのに、未だにこの中学で慣れないものがある。入学したときに隣の席だった女子──高瀬青空(そら)とかいう奴の様子が、ずっと、どう考えても妙なのだ。

「……はよー、高瀬?」

 色素が薄めの茶色い髪と鮮やかな花色の虹彩を持つ高瀬は、アルビノでもないのに赤目である俺と同様に色彩がおかしい。が、高瀬のおかしさはしかしそこではない。

「おはよう」

 挨拶すれば返してくれる。話しかければまあ一言二言は答えてくれる。笑いかければまあまあ笑い返してくれる。だが、その表情と声色が、とにかくどこか妙なのだ。もう高瀬は死んでいるんじゃないかと疑うほど、まったくの活力を感じない。高瀬以外に見たことがないからわからないが、たとえるならそれは、絶望しすぎた人間の成れの果てだった。
 こんなのがずっと隣にいたら、そりゃあ、気になるよな? 何があったんだろうって。何故そんな風なんだろうって。何をしたら普通に笑ってくれるんだろうって。
 だから、俺はいつも高瀬に話しかけていた。そのお陰で、厄介者を押し付けられたが如く、席替えして決まった席はまた隣だった。今は窓側、一番後ろの二席だ。
 高瀬に挨拶すると、席に座って重すぎるスクールバッグを机上にどかっと置く。朝読書用の本と筆箱を引っ張り出してから、スクールバッグを滑らせるようにして机の横に引っかける。習慣になっていた動作を終えると、俺はちらりと高瀬の様子を窺った。
 机の木目に視線を落として、なにやら考えているらしい。思考を遮るのも難なので黙って前を向くが、俺はあることに気がついて席を立ち、暑いので窓は開けたまま、ざっとカーテンを閉めた。

 高瀬は、朱色を嫌う。朱色というか、朝日とか炎みたいな、橙色朱色赤色がぱーっとなってる感じのあかを嫌う。今日の朝日は朱かった。
 何故わかるかって? もちろん、見ていればわかるのだ。よく見ていれば。高瀬は理科でガスバーナーを使うときの朱、朝日の朱、夕時の朱、給食の人参、他にも色々な朱を見たとき、だいたい視線を伏せて足早にどこかへ去るか、目を閉じて俯く。朱がないときは、俯きもせずに死んだ目で佇んでいる。その違いは明白だ。

「カーテン閉めといたよ。眩しいだろ」
「うん、ありがとう」

 すっと視線を上げて、不自然な笑みと共に礼を言う高瀬は、しかし俺の顔は見ない。多分高瀬は、俺も……俺の目も見たくないのだろう。朱いから。

 寂しいな。少し。

 そんなことを思っているとチャイムが鳴って、俺は本を開いた。最近人気の女性作家が書いた内容が重めの短編集だ。重いのが好きというわけではないが、この作家の本は好きだから読める。お陰で本を読むことは嫌いではなかった。
 高瀬は何を読んでいるのかと視線を横に振れば、なんと同じ作家の書いたものだった。微かな驚きと喜びをおぼえたところで、また眼前の文面を見つめる。やった、話せる話題ができた。
 読み続け、朝読書終了のチャイムが鳴るまでに一編読み終え、俺達は一斉に本を閉じる。
 きりーつ。れーい。おはようございます。
 間延びした号令に合わせて一礼、着席して、それから学活があって。もうすぐ面倒臭い授業が始まることに一つ欠伸を漏らす。
 そんな平和な日常の中に────



 揺れが、殴り込んできた。



 世界がペットボトルの中身だったら、絶賛シャッフルされてるなう! って状態だった。何もかも訳がわからなくなるくらいの、凄まじい地震。震度なんか知らない。が、今までこの地震大国日本に住んでいた俺も体験がないような衝撃なのは確かだ。
 避難なんか、自助なんか、できたものではない。机の下に潜ろうにも机自体が躍り狂う。照明が消えると同時、窓ガラスが音高く割れた。

「あぶっね……!」

 高瀬を突き飛ばすようにして自分ごと窓際から離れる。どちらかと言うと抱き抱えて跳んだって言うのか。まあ、揺れの混乱の中じゃ何を考える間もない。ただ、危なかったことへの遅れてやって来た恐怖に息が切れた。
 危ない。とにかく、教室内では踊る机と椅子で怪我をしてしまう。廊下に出ようと考えたが、高瀬の意識がないことに気がついた。

「高瀬! 高瀬、おい、勘弁してくれって」

 言いながら、高瀬を抱えたまま廊下に出る。廊下にも亀裂が走っていて、相当危ない感じがするのだが、教室より見た目カオスでもなかった。走る。
 避難訓練は積んできた。今の俺の行動がどう考えても間違いだってことは俺がいくら馬鹿でもわかる。が、集団行動をしてそれでみんなが怪我をしていたらそれこそ馬鹿げているではないか。

「海間(かいのま)、勝手に行動するな!」
「日暮(ひぐれ)!? 日暮! 行くなよ!! 死ぬじゃん!!」

 担任教師や友人の叫ぶ声。無視して行く。
 階段はまともに降りたら危ないからだいたい全段飛ばしで飛び降りた。衝撃で足がじんじん痛むが、捻らなかったから別にいい。ただただ、床の亀裂や穴に足を取られないように進む。
 大丈夫、このまま校庭まで出られるはずだ。
 そう思っていた。
 思っていたのに。
 二階に差し掛かった所で、俺の目の前で、理科室前の廊下から炎が上がった。アルコールランプの中身とかが漏れ出していて、何かの弾みで今点いたのだと思う。思わず叫んだ。

「高瀬にヤなもん見せるなよ!!」

 全力で炎を走り抜ける。熱い。熱いからそのままの勢いで走った。風圧で、俺の身に移った炎がくすんで消えてくれる。
 何もかも忘れて、高瀬と俺の無事だけのために走る。
 が、そこでまた大きな地震に足元を掬われた。揺れで炎が拡散し、じりじりと近づいてくる。この足場の悪さで揺れに襲われていては、動くことが叶わない。

「……あっつ……!」

 そうだ、余震の存在を見落としていた。自分の失態に俺は唇を噛む。これじゃマジでヤバい。
 揺れに耐えるうち、炎はもう俺達のところまで到達してきた。煙を吸わないよう姿勢は低くして、高瀬を背中で庇う。熱い。痛い。多分火傷している。
 揺れの収まりを感じると共に、再び走り出した。体力には自信があるから、このくらいの恐怖と疾走にへこたれたりはしない。それでも背中の痛みは致命的で、ペースは明らかに遅くなる。だが、ここは二階だ。一階まで下れば煙も来ないだろうし、校庭まで出られれば、助かる筈だ。すぐ廊下を抜け、また階段の前に出た。
 ここで、問題が一つ。
 階段を飛び降りられない。飛び降りたらその衝撃でどれだけ背中が痛むがと考えると、足がすくんで駄目だった。致し方なく、亀裂の蔓延る階段を、慎重に、慎重に下っていく。人一人抱えているせいで、とてもバランスがとりにくい。
 最初の揺れのとき、頭でも打ったのだろうか。気絶したままの高瀬は、呼んでも浅い息を繰り返しているだけだった。
 踊り場まで、なんとか下れた。あと、21段だ。
 一段。二段。三段。

 そして。
 また、余震が来た。

 階段が崩れ、二人、階下まで落下する。ガラリと瓦礫の音、そしてパリンとガラスの割れる音。そんなものたちが散らばった床に、俺は背中を強かに打ち付けた。

「っ……──!」

 激痛に声も出ない。高瀬は軽症だと思うが、これはかなり、とにかく……痛い! 火傷の跡がなくても、こんな打ち付け方をすれば痛みに悶絶するだろうに。あまりの痛みに一切動けなくなる。焦りを募りつつ、なんとか声だけでも絞り出した。

「た……か…………せ」

 これはもう、一人で避難させないと駄目だ。幸い昇降口まで距離はない。起きてもらえれば、それで少なくとも高瀬は助かる筈。

「たか、せ。高瀬っ。高瀬! ……青空っ!」
「……う……」

 反応が、あった。
 沸き上がる歓喜に任せて、声を張り上げる。増すばかりの痛みは、いっそどうでもいいと思った。

「青空! 避難してくれ!」
「……え」

 驚きに見張られる、綺麗な青の相貌。震え出す細い肩。高瀬、いや、青空がまともに感情を出したところは初めて見た。その感情が恐怖でなければ、もっとよかったのにな。
 その恐怖がどこに向けられているかが、階段の上なのもわかっていた。火の手が、少しずつこっちまで回ってきているのだ。朱い朱い、焔。青空の膝ががくがくと震えていた。

「……なくなる」

 微かな呟きが、聞き取れずに俺は聞き返す。

「え?」
「なくなる」

 頭を抱え、身体中を冗談のように大きく震わせ、瞳から大粒の涙を落として、青空はうわごとのように繰り返した。

「なくなる。なくなる……嫌。嫌だ……なくならないで。いなくならないで……いやだ……」

 錯乱しているんだ。
 青空に何かあったというのは、もしや火事で大切な人を亡くしたというものかもしれない。こんな反応をするのであれば、予測も明確である。
 ひきつる背中の痛みに歯を食い縛りながら、手を伸ばす。青空の涙が掌に触れる。冷たい雫だった。

「……青空。そりゃこっちの台詞だよ、いなくなんな。だから早く」

 不思議と、自分の声が遠ざかっていく。手を伸ばしている感覚が、背中を支配する痛みが、ふわりと薄まる。
 ようやっと、俺は違和感を知覚する……遅かった認識は、やがて、俺の涙も生んだ。そう、意識が、朦朧としてきている。きっと煙のせいだ。そして悟った。俺は、既に、生き残れない。

「避難……して、く、れ」

 そうして青空が生き残れたら、それが、俺の想いの証になるから。それで、あわよくば、俺の存在が、青空の心の灯(あかし)となりますよう。

 意識が、消えた。
















 次に目覚めた時、俺は、見渡す限り一面の、朱い夕闇の中にいた。


2015年7月2日

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