キーパーソンの法則
また事件ははじまり
 夕食後、消灯時間まではまだ多少の間があるほどの時刻。2635108は、研究室へは行かずに無機質な廊下をひた歩いていた。その表情は硬く、微かに俯いている。
「……時計」
 壁に掲げられた電子時計の前で、2635108は立ち止まる。21時を回ってから数分を記す電子時計を見上げ、あと五時間か、と呟いた。
「なにが〜?」
「わ、ミラちゃん?」
 呟いた矢先に顔を出した61に驚いて、2635108は思わず声をあげる。その様子におかしそうにくすりと笑むと、手錠のない両手を胸の前で合わせて、61はにこやかにもう一度問いかける。あざとい。
「あと五時間ってなーに?」
「ああ、それは……特に何でもないよ?」
「そーなの?」
「うん。なんか変な夢見ちゃってさ、そんなかじゃ時計が五時間後を差してたってだけ」
 壁掛の電子時計は、日付も同時に表示している。2635108が昼間に見た光景では、この時計が明後日の2時過ぎを示していたのだ。2時まではあと五時間ほどである。だから、気になってなんとなく呟いてみた。それだけだった。
「まあマジでそれだけだから置いといて……何の用かな、ミラちゃん?」
 2635108は、空々しい笑みを浮かべてみせそう問う。
「んーとね、特に用ってわけじゃないの。もとからずーっと見てたからっ♪」
「うわぁ、ストーカー」
 61が今日1日そういった行動をとっていたことは、427362から聞き及んですでに知っている。驚きはせず、2635108は困ったようなふりをしてそう切り返した。
 それにしても余裕だな、と2635108は内心悪態をつく。敵に自身の行動を惜しげなく明かすどころか、身一つで敵の目の前に笑顔で立っているのだから。相当自分の力量に自信があるらしい。
「で、ミラちゃんいつ来るの?」
「んー? んー……いつでもいいんだよー」
「わぁお、考えてないのね」
「本当はねぇ、キミ達のしんへーきができる前に行けたらよかったんだけどー……できちゃったから、いつでもあんまり変わらないでしょ?」
「ごもっとも。よく見てらっしゃるね?」
 苦笑混じりに相槌を打ちながら、2635108はポケットに手を入れる。小さな連絡端末を、右手の手のひらに握り込んだ。しかし、このままブラインドタッチで誰かに連絡を入れるには無理がある。まだこの端末には慣れてはいない。
 攻めいるのがいつでもいいなら、最も有利な時点を狙うに決まっている。そして、最も有利な時点というなら、相手が武器を持たず、仲間を連れず、武器を得るか仲間を呼ぶには相応の手間を要する……そんな時ではないか。
 つまり、今だ。
 よって、61は今話しかけてきたのだろう。
 連絡端末を握る手首が、61に掴まれた。
「チェロくん、珍しく気づくの遅いねー♪」
 61から、ぱっと華やかな笑顔が投げ掛けられた。相変わらず笑顔を繕うのが上手だなぁ、と関係のない思考が過る中、2635108も負けじと笑みを投げ掛け返す。
「最近寝てないから、機能落ちちゃったかな? ……まあぶっちゃけ気づいてはいたんだけどさ。流石ミラちゃんだよ。超パワフル系美少女?」
「えへへっ、すいみんだいじ、だからね!」
 すっ、と微かに風を切る音を知覚する。その次の刹那、2635108の意識は闇へと転げ落ちていった。




 消灯時間である10時直後、427362の連絡端末へ音声着信があった。無音の研究室内には異様なほどよく響いた高い長音を耳にして、即座に連絡端末を覗き込めば、相手は2635108だと知れる。
『あー、ホルン? ごめんいま寝てなかった?』
 いつも通りより少し調子の低い問いに、察したらしい427362はひとまずと一言で受け答える。
「寝てない」
『んじゃよかった。でまぁ、用件なんだけどさ?』
 427362が相槌を打つ間もなく、2635108は矢継ぎ早に言葉を垂れる。
『捕まりましたごめんなさい』
 だと思ったよ、とでも言うかのように427362は息をついた。その息づかいが伝わったのか、2635108の言葉尻から笑顔の気配が消え去る。
『ホルン、来てくれる? 一人で来ないとミラちゃんが怒るらしいから一人で』
「……状況は」
『元ヴィルクさんとこの研究室なうだよ。研究棟9034号室ね。
今この部屋には机と俺とミラちゃんだけで、外にはいのくんとリミエさんがいらっしゃる。リミエさんがいつもの刃物一つで武装してて、ミラちゃんといのくんは今んとこ武装なし。
で、俺はミラちゃんとお手て繋いで仲良く立ってるよ。うん、痛い。ねぇミラちゃん何かあればすぐ俺くらい気絶させられるんだから離そうよ痛い』
 賑やかな状況説明である。わかった、とだけぼそりと告げて、427362は通話を切断した。
 ぼんやりと座っていたダークグレーのパイプ椅子から立ち上がり、黒い脳機能操作機器を二つ片手に握る。ただ、機器に頼りすぎた戦い方はよろしくない。なんせ相手は、粗野の戦いのプロなのだから。考えた末、持っていくのは一本だけということにした。身軽な方が動ける。

 ──来たる日は、近い。油断してはいけない。
 
 さて、どう状況を打破できようか。思考を巡らせながら扉を抜け、階下を目指す。


        2015/8/15執筆

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