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愛しくて堪らない



平穏な日常なんて、ほんの些細なことで壊れてしまう。
そう。例えその平穏が、どれだけ絶対的なものに見えてたとしても。





そんな僕らの日常。





それは、ある日曜日の出来事だった。

父さんは仕事、母さんは買い物、憂はリボーンとの修業で、僕以外の家族は皆、家を空けている。それは割とよくあることで、特別何を思うでもなく、僕はいつものように本を読んでいた。普段、憂がいる時に読むのとは違う、小さな動物がたくさん出てくる絵本だ。本当は勉強の本よりこういうものの方が好きなのだが、以前憂に「絵本なんて子供の読み物だよ」なんて大人ぶって言ってしまった手前、こうして誰もいない時を狙ってこっそりと読んでいる。


ちょうど、うさぎ達が出てくるお気に入りのページを開いたら、突然玄関が勢い良く開く音がし、大きく肩を揺らした。こんな風にドアを開けるのは、きっと憂だと思ったからだ。見つかる前に本を隠さないと。

いつリビングに入ってくるか分からないから、とりあえず絵本をソファーの下の隙間に滑り込ませ、別の本を読む振りをした。しかし、いつまで経っても一向に人が入ってくる気配はなく。



「……?」



小首を傾げ、僕は玄関に向かうことにした。

そしてそこにいたのは、僕の妹の憂ではなかった。



「……母さん?」



靴も脱がず、玄関の床にぺたんと座りこんでいたのは、母さんだった。ここまで走ってきたのか、母さんは息を乱していて、僕が声をかけたことによりバッと顔を上げた。

僕を見た途端、眉が下がり、表情が泣きそうに歪む。いや、泣きそうに、ではない。ぽろぽろと頬を伝うそれは、確かに涙だった。



「母さん、どうしたの!?」

「……結弥……っ」



慌てて駆け寄ると、ぎゅうっと強い力で抱きしめられた。耳元で聞こえる泣き声が痛々しく、僕はとにかく泣き止んで欲しい一心で、母さんの背中をぽんぽんと叩いた。



・・・・・・・



「……ごめんね、結弥。お母さんが子供に泣きつくなんて、恥ずかしいことしちゃった」

「ううん。気にしないでよ、母さん」



少しだけ落ち着いた母さんと、同じソファーに座りながら話をする。

母さんの涙なんて、ドラマで感動して泣いている時以外に見たことがなかったから、すごくびっくりしたけれど。
……今、それ以上に気になるのは、別のことだった。



「……父さんが浮気、か」



言いづらそうにしている母さんから無理矢理聞き出した、涙の理由。
それは、父さんが原因だったらしい。

買い物帰り、10代目に用があった母さんは、父さんの仕事場であるボンゴレのアジトに行った。そこで見たのが、知らない女性と父さんが抱き合っていたところ、だと。



「だ、だって、あれは……確かに、その……」



息子にこんなことを話してもいいのかと、母さんはまだ悩んでいるようだった。また泣き出しそうになる母さんの背をさすり、極力優しい声で言い聞かせる。


「父さんは、母さんのことが大好きなんだよ?浮気なんてするわけないじゃないか」

「……でも、」



そうだ。父さんはいつだって母さんのことばかり考えていて、とにかく母さんさえいればいいって感じの人で。そんな父さんが、母さんを裏切って他の女の人と、なんて考えられない。何かの見間違いだよ、と言いかけた時、母さんの携帯が激しい音を立てて震えた。

ディスプレイに表示されたのは、父さんの名前。

恐る恐るそれを手にし、母さんは僕を見た。少し微笑んで僕が頷くと、安心したのか、ようやく通話ボタンを押して電話に出た。



「……はい」

『優里亜かい?ちょっと急いでるから用件だけ伝えたいんだけど』



部屋が静かだから、向こうの声もはっきり聞こえる。父さんは本当に急いでいるようで、母さんの震える声にも気付かず、早口でこう続けた。



『今日は遅くなるから、ご飯はいらないよ。心配しないで、先に寝てて』

「はい、分かりました」

『ごめん、その代わり明日は何処かで外食でも――』



父さんが、そこまで口にした時、だった。
突然交じった音声は、紛れも無く



『あれ?キョーヤ、誰に電話してるのー?』



――父さんと親しげな、若い女の人の声、で。

刹那、携帯を床に落とし、母さんが部屋を走り去ってしまう。かろうじて見えた目には、また涙が溜まっていた。
母さんはそのまま家を飛び出し、僕は呆然と、携帯から出る父さんの声を聞いていた。



・・・・・・・
Side:優里亜



何処をどう進んだのか、全く記憶にない。
ただ分かるのは、私はさっきの電話にショックを受けて、逃げ出したということだけ。恭弥さんを信じられず、家に子供を残して、一人で逃げた。



「……最悪だ、私……」



流しすぎたせいで、もう涙も出ない。
ぐすっと鼻を啜っていたら、あることに気がついた。すぐそこにある建物。あれは



「……並盛中」



懐かしいその建物は、昔から全然変わっていない。いや、懐かしいと言っても、たまにここの前を散歩したりするから、それほど見てなかったわけでもないのだけど。
恭弥さんと向き合うことから逃げたというのに、足が勝手に向かったのは、彼との思い出が一番強い場所だった。

無意識に、私は並盛中へと入る。日曜日の夕方ともなると、もう部活動をしていた生徒もいなくなり、校舎は実に閑散としていた。

ふらふら、足の赴くままに進んでいると、辿りついたのは屋上。傾いた陽が辺りをオレンジ色に染め、その眩しさに一瞬目を細める。
こんな時でも、考えるのは、よく此処で恭弥さんがお昼寝してたなぁなんて彼のことばかり。



「……恭弥さん」



あの女の人は誰だったのだろう。
顔は見えなかったけど、髪は明るい色で、体つきもすらっとしていて。きっと私なんかは足元にも及ばないような人。

あの女の人は恭弥さんとどんな関係なのだろう。
恋人?でも、もしかしたらお友達だったのかもしれない。……ううん、ただのお友達だったら、あんな風に抱き合ったりはしないはずだ。それなら、やっぱり――。


フェンスに寄り掛かって座りながら考えていたら、泣き疲れたのか段々と眠くなってきた。何も考えたくなくなって、私は心地良いその感覚に身を任せた。



・・・・・・・



あれからどのくらい経ったのだろう。
意識の隅から、何かの音が聞こえた。バタバタという、誰かが走るような音。

私はゆっくりと重い瞼を持ち上げ、辺りが暗くなっていることを知った。空気も冷たい。どうやら、いつの間にか夜になってしまったらしい。

ああ、憂と結弥が待ってるんだから、早く帰らないと。そう思って立ち上がろうとした時、大きな音と共に、屋上の入口が開かれた。


そこに現れた人物は肩で息をしていて、額にも汗が滲んでいた。扉に手をついたまま、何度か呼吸を繰り返した後――やっと見つけた、と。そう呟いた。



「きょうや、さん。なんで……?」



なんで、ここに?
今日は仕事で遅くなるはずじゃなかったの?

小さく漏らした私の疑問に答えることなく、恭弥さんは足早にこちらへ近づき、



「きゃっ、」



思いきり、私を抱きしめた。
まだ整っていない息が首にかかる。もう一度名前を呼ぼうとしたら、更に腕に力を込められる。

さっきまで恭弥さんに会うことが怖くて仕方なかったのに、何故か今はあの女の人のことを考えず、普段通りに話しかけることが出来た。



「恭弥さん、あの……い、痛い、です」

「っ、は」

「……息、大丈夫ですか?えっと……どうして、そんなに苦しそ」

「君、が」

「え?」

「優里亜が、いなくなるんじゃないかって、思った、から……っ、町中、走って探したんだよ……!」

「恭弥、さ……」



恭弥さんの右手が、私の頭をぐいっと抱き寄せた。そのせいで彼の胸に顔を押し付ける態勢になり、何も言うことが出来なくなった。

ただ、すぐ側で聞こえる恭弥さんの鼓動と、こんなに必死に探してくれたんだという事実が堪らなく嬉しくて、自然と涙が溢れた。



・・・・・・・



「えっと……恭弥さんは、どうして私を探しにきたんですか?」



お互いが少し落ち着いた頃、気になっていたことを尋ねてみた。
もう逃げたりしないのに、恭弥さんは私を離してくれず、まだ私達は抱き合ったままだ。改めて考えると、これってかなり恥ずかしい。



「あの後、結弥が電話に出たんだよ。それで、物凄く怒られた」

「え、結弥が恭弥さんを、ですか?」

「うん。母さんを泣かす奴は、例え父さんだろうと許さないって」

「……結弥」



嬉しいけれど、子供に泣いているところを見られてしまったのを思い出し、情けなさに顔が赤くなる。



「……結弥に怒られた理由だけど、」



瞬間、心臓が跳ね上がった。
やだ、聞きたくない。あの映像が鮮明に蘇り、怖くて足がすくむ。

でも、私は聞かなくちゃいけない。
覚悟を決めて目を強く閉じると、聞こえてきたのは、疲れきったような恭弥さんの声。



「……僕は浮気なんてしないよ。優里亜以外の女なんて、興味を持ったことすらない」

「で、でも!私が見た時は、確かに抱き合ってて……!」

「彼女はボンゴレの人間なんだよ。仕事の関係で、一度会わなくちゃいけなかったんだ」

「じゃあ、お仕事なのに、どうして抱き合う必要があるんですか!」

「……彼女は、イタリア人だから」

「え?」

「顔は見なかったのかい?明らかに日本人には見えないと思うんだけど」

「え、あ」

「イタリア人は挨拶であんなことをする。イタリア人の知り合いがいる君なら、分かるだろう?」

「……はい」



イタリア人の知り合い。
それはきっとディーノさんのことだ。
私も以前、別れ際にキスをされたり、頭を撫でられたり、色々あった。



「優里亜があの男に何かされる度、僕がどれだけ苛ついたか……君も分かった?」

「……えっと、ごめんなさい」



知ってしまえば簡単なこと。
確かに私が見たあの女の人は、髪の色が日本人離れしていた。抱き合っていたように見えたのも、記憶を辿れば彼女が抱き着いていただけだったようにも思える。



「私、勘違いであんなに取り乱して、は、恥ずかしいです……!」

「こっちは、優里亜がいなくなったって聞いた時、心臓が止まるかと思ったよ」

「う。ごめんなさい……」



肩を落とす私を見て、恭弥さんは少し笑ったみたいだった。
うぅ、酷い……。

そう思いながら顔を上げたら、すぐ間近に優しく微笑む恭弥さんの顔があって。



「でも、優里亜がどれだけ僕を想ってくれてるか分かったから、結果的には良かったかな」

「そ、それは……!」

「君は、僕がいないと生きられない。だろう?」

「……っ」



ちゅ。小さなリップ音を立てて、唇が軽く触れる。
途端に顔が熱くなって、反らそうとしたらすぐに顎を掴まれ、また恭弥さんの方を向かされる。そして、何度も何度も、唇や頬にキスが落とされた。

ああ、もう。











「き、恭弥さん!そろそろ帰らないと、結弥達が待って、……っ」

「今日は跳ね馬に頼んだから、帰らなくて大丈夫だよ」

「え、それってどういう」

「仕事が忙しくて、しばらく二人きりになれてなかったからね。今夜は楽しもうよ」

「な、何言ってるんですか!ちょっと恭弥さん……!」



09.08.20
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