―記念文倉庫― 6 梵天丸の傍らにもう一組褥を敷いて、すっかり眠りこけた青年を横たえた。 宿の者に用意してもらった手桶に己の主とは別の手拭いを浸けて水を絞る。それを、赤い顔をした政宗の額に乗せてやった。 その時、人の気配に目を覚ましたのは梵天丸の方だ。 少年は寝返りを打って、具合の悪そうな若者の横顔を少しぼんやりした表情で見やって身を起こした。 「大丈夫ですよ、梵天丸様…。怪我も大した事ありませんでした」 「そうか…」 政宗の眠りを邪魔せぬよう自然2人の交わす声は潜められる。 賦役の言葉に納得したのだろうが、幼い主はそのまま凝っと若者の寝顔を眺め続けていた。 それは改めて10年後の自分と言うものを確認しているようでいて、けれど、起きながら夢を見るような心地でもあった。 「…梵天丸様は信じてらっしゃるのですか?この者が10年後のご自身だと」 「………わからぬ」 てっきり無邪気にそんな夢物語を信じているものだと思っていた小十郎は、少年の顔を静かに顧みた。 「でも、なんとなく梵に似ている…」 賢しげにそう言う少年は多分、真実であろうとそうでなかろうと、どちらでもよかったのだろう。ただ、眠たげに左目を擦るとふと、その己が手を見下ろした。 「目が…ということではないぞ」 「はい」 「意地っ張りなところとか、やせ我慢するところとか」 「はい」 「我が侭なところとか」 「………」応えの代わりに微かに低く笑った。 「弱みを見せたくないところとか…」 「―――はい」 「梵はまだお前に全幅の信頼をもっているわけではない」 「…梵天丸様…」 「廃嫡になるやもしれぬ梵の賦役にとりたてられて、さぞかし後ろ指をさされていることとおもう。お前がよほど腕の立つ武人だということも聞き及んでいる。ほんとうなら、父上の元で勝ち戦の武勲を立てて立身しているであろうに、このようなところで腐ってしまってもったいないとも」 「そのような」 「小十郎」 賦役に何も言わせまいとして小さな主がその左目でキッと睨みつけて来た。 「梵がお前を頼りにしてしまうまえに、お役御免を願い出ることを、ゆるす」 「―――…」 「いちど、言っておきたかった…考えておけ」 言うべき事を言い切ると梵天丸は賦役の顔から眼を反らしつつ、夜着の中に潜り込んでしまった。 そうなった後も若い小十郎は返す言葉を見つけられなかった。 深い眠りから浮上した、と言うはっきりした感覚があって寝返りを打つと、ぱっかり目が見開いた。 開け放たれた襖障子から燦々とした爽やかな陽の光がこれでもか、と言う程、降り注いでいる。その眩しさに思わずしかめっ面で目を閉じた。 ―――そう言や、酒を呑んでからの記憶が曖昧だが、自分は何時褥に入ったのか。 そう思いながら視線を巡らせると、部屋の隅で柱に身を凭れ掛け、刀を抱き込んで座る男の姿を捉えた。 視線が合えば、それまでの険しい表情が俄かに立ち消え、溜め息を吐かれてしまった。 その様が如何にも忌々しげだったので、政宗は思わずむっとなって頭から夜着を引っ被ってやった。 「汗をかいたろう、晒しを取り替える」 そう言う声が夜着の向こうから降って来て、おや?と思う。賦役の声音がその険悪な表情の割に穏やかだったからだ。 夜着を退けて身を起こせば、傍らにいざり寄っていた男と目が合った。それを何となく外しながら改めて部屋の中を見渡せば、あの子供の姿がない。 「…梵天は?」 「梵天丸様は露天風呂の方に行ってらっしゃる」 「放っといて良いのか?」 「この部屋に泊まる者だけが使える風呂だ。後で迎えに行く…」 何気ない会話を交わしながら、一重の上を脱いだ政宗の晒しを賦役が解きに掛かった。政宗はされるがまま、大人しく凝っとしていた。 「お前も、入るか」 ぼそりと落とされた問いに、ふと男の顔を覗き込んでいた。 「別に、厭なら良い」 慌てて己の言葉を打ち消す小十郎だ。思わず政宗はニヤリと笑った。 「厭とは言ってねえ…小十郎も入ろうぜ」 「俺は良い」 「お前が入らなきゃ俺も入らない」 言いかけ、ピリリと気配が尖ったのに口を噤んだ。 「ウソ、冗談、からかっただけだ。悪かったよ」 そう繰り返しながらも政宗の口元には穏やかな笑み。 「お前があいつをそれ程大事にしてくれてんのが嬉しいんだよ、これでも。―――実は小十郎ってさ、色んな事、粗末にして来ただろ」 「何を…」 反論しようとして、賦役の口はそれ以上の言葉を紡がなかった。 「何年一緒にいると思ってんだよ。…お前が一番粗末にしてるものって言や、それは自分自身だよな。…ああ、認めなくたって良い。俺の言う事が世迷い言だとでも思っとけ。でも…俺はあのくらいの年頃から気付いてたぜ。ホント、俺には勿体ない男だって、さ」 余計な事言っちまったか、そう呟きながら晒しを解かれた政宗は片手で一重を羽織り直すと、身軽に立ち上がった。 賦役が一晩付きっきりで看病してくれたお陰で、自分も梵天丸もすっかり熱が下がって気分が良かった。 そのまま、一人固まってしまった男を残してふらりと部屋を出る。 この部屋専用の露天風呂へは宿の者に尋ねて足を向けた。 山際に柴垣で囲ったその一角は、数人の宿泊客の為としては規格外の広さで、天然の岩で造られた湯船や檜製の風呂、掘建て小屋に据えられた蒸し風呂など、それは至れり尽くせりの有様だ。 梵天丸はそこで、浅めの岩風呂に体を浸けたまま泳ぎの真似事をしていた。 「風呂で泳ぐなんざ、行儀が悪いな」 「政宗!目が覚めたのか」 それまで詰まらなそうだったのがぱっと表情を輝かせる。 「ああ、Couldn't be better.」 絶好調と言ってニヤリと微笑み、歩み寄って来る青年は全裸だ。 湯帷子を着付けられた子供は、ぽかんと口を明けて言うべき言葉を取り零してしまった。そのまま、政宗が湯に浸かるのを見つめ続ける。 「なぜ着物を着ない?」 「肩の怪我はまだ腫れてるが、大丈夫なのか?」 「今そなたはなんと言ったのだ?」 落ち着いたと思ったら質問攻めだ。政宗はそれにひとつひとつ丁寧に応えてやった。 庶民が風呂に入る時には湯帷子など身につけず素っ裸だと言う事、怪我は痛むが風呂に入るくらいどうって事ないと言う事、そして最後に、自分が何時も使っている異国語は西洋の島国である英国のものであると言う事。 「なら、梵も脱ぐ」 「知らねえぞ、おっかない賦役に叱られても」 「郷に入っては郷に従え、だ」 「Be cheeky with me.」 「びーちぃ…?」 「良く言うよ、って言ったんだ」 「梵にもその異国語を教えてくれるか?」 その問いにはちょっとの間考えて「良いぜ」と応えた。 数日ここには逗留するつもりだったが、全ての時間を風呂に浸かっていたり寝て過ごすのも勿体ないと思ったのだ。暇潰しに異国語を倣うのも、この子供にとってプラスになるだろう。 そう思い定め、もうもうと湯気を立てる湯から顔を上げて突き抜けるような蒼穹を仰ぎ見た。 雪が降る気配もない、透き通った冬晴れだ。周囲の山の木々が真っ白な綿帽子を被っている景観も、陽の光に輝いて如何にも小気味良かった。 「なあ、政宗」 同じように空を振り仰いだ梵天丸がそのままぼそりと声を掛けて来た。 「10年後にも、そなたの側に小十郎はいるのか?」 その問いに、さすがの政宗も幼な子を振り向いてしまった。 表情を消して、右目を覆った布も取り去った梵天丸は、唯一の左目に空を映して真っ直ぐ見つめていた。 どのような応えが帰って来ても受け入れられる、とそれはそう物語っていた。 「ずっと一緒だ、これから先も俺の側にいてくれると誓ってくれてる…だから安心しろ」 その小さな肩を無事な方の左腕で抱き寄せて言ってやると、ようやく安堵したのかこっくりと頷いた。結い上げたままの毛先が湯に濡れて、その細っこい首筋に張り付く様は未だ余りに頼りなく、儚げだ。 ―――やっぱり"梵天丸"が"政宗"になるにゃ、あいつは絶対に不可欠って事だ。 そうした事が思い返されると、彼が自分の賦役として取り立てられたのには、何か意味があるのだと思いたくもなる。 [*前へ][次へ#] [戻る] |