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―記念文倉庫―

やがて男は喉の奥で低く笑った。
「よっぽど嫌われちまったようだ…せっかく良い素材持ってんのにな」
「素材?女ったらしの素材か」
「気ぃ悪くすんな。お前なら月3桁行けると思っただけだ」
政宗は憤ろしく息を吐いた。
「貧乏人だと思ってバカにすんじゃねえよ」
男は今度こそ声を出して笑いながら立ち上がった。
急に六畳間のこの部屋が狭くなった気がする。
「心が満たされていりゃ、金も物も必要ねえ。それぐらい俺にだって分かる」
目の前に立って見下ろして来る男の危険な両眼を、政宗は見返した。
「お前の心を満たすものは何だ?」と男は言った。
言いながら、左手がふいと持ち上がって政宗の前髪を掻き退けた。それに隠されていた眼帯を無遠慮に覗き込む。
「あるいは…これから満たそうとしてるもの、か?」
男の手を叩き落とすより早く、ぐい、と腰の後ろを押されて体が男のそれに密着した。思わず身を捻って腕を体の間に入れて肘と掌で押し返そうとした。
男の体の感触と、その生温い体温とに鳥肌が立った。
ジタバタ暴れる青年の身体を力尽くで捩じ伏せ、男は制服の掛かった壁に突き当たった所で青年の顎を捕らえた。

顔の上に落ちかかる影。

男からはコロンなどの香りはせず何かの移り香のようなものと、煙草の味がした。
無理矢理唇をこじ開けられ、食い縛った歯と歯茎を舐め上げられる。それが意地でも開けられないと見るや、柔らかな唇の感触を思い知らせるように何度も吸われた。
何度も―――。
その度に、湿めやかな音を立てて政宗の耳を聾する。
頭に血が上った。
くちゅくちゅと鳴る音に、耳元や首筋が総毛立つ。
掴んだVネックのシャツを引き千切らんばかりに締め上げた。
どのくらいそうしていたか、分からない。
強張った体を解放して、男が手を離すまで堅く閉ざしていた瞼をこじ開けると、部屋の中は一段と暗くなっていた。腕に力が蘇り、それを間髪入れず男の顎目掛けて振るっていた。
ぱしん、と音を立てて腕は男の左手に取られ、やり場のない憤りに振り払う。

片倉は何も言わず出て行った。
その時になって初めて外に雨が降り出しているのに気付いた。
覚束ない足取りで開け放たれた窓に寄り掛かる。陽はあるのに分厚い雲で何時の間にか空は覆われ、白い影を引いてしとしとと雨はそぼ降る。
男の後ろ姿はその中に消えて行った。



政宗が夜のバイトにと佐助から紹介されたのは、とあるホテルのスカイラウンジのホール係だった。
池袋西口の下界に雑多に林立する清濁併せ持った夜の仕事とは一線を画されたそこは、地上28階からの展望と、シティホテル特有の上品さに包まれていた。
そこで時折厨房を手伝いながら政宗は給仕の仕事に明け暮れた。
彼の17歳と言う年齢に当初難色を示していたホテルの責任者も、佐助からの紹介である事ともう一つ、政宗の特技によってやがて笑顔で頷くようになった。
スカイラウンジは昼間はともかく、夜は照明を絞り気味にしてバーカウンターを浮き立たせ、ひっそりと大人の時間を楽しむ空間へと演出される。
そのラウンジの目立たない場所に一台のグランドピアノが据え置かれていた。週内のローテーションでピアニストを入れて、会話を邪魔しない程度にしっとりとしたBGMを提供するそれ。政宗はラウンジの閉店一時間前にそこに座って数曲を弾いた。
ホテルからの選曲はクラッシックを中心としたいかにもラウンジBGMだったが、時折リクエストでジャズやHIP−HOPなども弾く事があった。
音楽事務所を通じてピアニストは派遣されて来るが、彼がバイト代は今のままで良いからピアノも弾かせてくれと言うものだから、ホテル側も多少の経費が減って喜んだ。

その時はエリック・サティの「グノシェンヌ」を演奏していた。
タイトルや作曲家を知らなくとも誰もが一度は耳にした事のある名曲だ。同じ旋律を何度も繰り返し繰り返し、やがて徐々に変化して行くのは元の楽譜に拍子記号も小節線もなく、音楽と時間に対して奏者が自由に演奏していいと意図されて作られたものだったからだ。
楽譜にはまた同時にサティの奇妙な注意書きがあり、「思考の隅で…あなた自身を頼りに…舌に乗せて」などとある。
曲はリクエストされたものだ。
政宗はエリック・サティのこのシリーズ「グノシェンヌ」の他、「3つのサラバンド」「3つのジムノペディ」が個人的にも好きだったので本当に時間を忘れて鍵盤に指を走らせ続けた。
この、何処か哀しげな、だが平穏と暖かな日差しを感じる曲調。早さや区切り、初めと終わりを意識せずとも良い開放感。そして全体の底辺にそこはかとなく、確かに流れる不安の影―――それに巻き込まれそうになりながら辛うじて踏み止まっている。
そんな瞬間に酔いしれる。

この曲をリクエストしたのは、ラウンジのバーカウンターで一人モスコミュールをアラカルト・チーズと共に静かに飲み重ねている女だ。
本式らしく銅のマグカップで提供されたそれは、ウォッカベースにライムジュースとジンジャーエールを適量加えたキツめのカクテルだ。食前食後を問わず飲めるすっきりとした味わいが特徴で、女も食事はせずに何時も某かのつまみとこれだけで1時間程を過ごしている。
女は余り目立たないシックなスーツをいつも身に纏っていた。
ラウンジに入るまでは色の濃いサングラスを夜でもしており、控えめな化粧で派手な顔立ちを隠している。だが、やはりそこは隠し切れないオーラを常に発しているようだった。ホテルマンの対応も他の客とは違った。

「グノシェンヌ」が終わって、その女が初めて政宗に直接声を掛けて来た。いつもはラウンジマネージャーが言伝て来るのだ。
「とても良かった」と女は言った。
そして裸のままの万札を一枚、細い指先に挟んで差し出して来る。
政宗は眉間にくっきりとした皺を寄せて女を顧みた。
「金ならホテルから貰ってる」
「あら」女の大きな瞳が更に大きく見開かれた。
「日本じゃ余り馴染みがないでしょうけど、チップよ。良いと思ったんだもの、私の気持ちを受け取ってくれない?―――I was able to spend wonderful time on the coattails of you.(あなたのお陰で素敵な時間を過ごせた)」
「…It was so good(そりゃ良かったな).」
自分の言葉に対する政宗の返しに、女は生真面目そうな眼差しを凝っと向けた。それから微笑み、だったのだろうか、両の口の端をきゅっと引き締めて更に女は言った。
「In addition, I come to hear the music that you play.(また、あなたの曲を聴きに来る)」
熱っぽいその台詞に、政宗は気のない風に応えた、
「Like it.(お好きなように)」と。


仕事帰りに診療所へ寄った。
武田を起こすとうるさいので、幸村を携帯で呼び出したのだが、これが又なかなか電話に出ない。何十回と言うコールをイライラしながら待って、ようやく起きて来た少年が瞼を擦りつつ診療所の扉を開けた。かと思えば、立ったまま居眠りを始める始末だ。
そんな幸村は放っておいて、政宗はゲージの中の子猫を覗き込んだ。
今はおねむの時間ではないらしく、柔らかな毛布の上で体を丸めたままちょこちょこと毛繕いに余念がない。
若々しい生命の生きようとする力は強く、車に挽かれた晩から1週間経ってかなり元気になって来た。最初の頃は点滴と流動食やミルクしか受け付けなかったのが、今は湯でふやかしたキャットフードも食べるようになった。
武田は引き取っても良いが、と言って政宗の不在を最も着に掛けていた。それにも隣人の事を話して納得してもらった。武田も知っている男だ、黒田と言う。劇作家志望で常にあの部屋で紙とペン片手に苦悩している。
「そりゃ、お主。殆ど黒田の奴に押し付けるようなものではないか」と武田は呆れた声を上げた。
政宗はゲージを開けて、そっとその中に手を差し入れた。
子猫は何事かと鼻と髭をひくつかせて顔を伸び上がらせた。その頭から背を数度撫で、戸惑う体の下に手を入れた。ふにゃり、とした物体を持ち上げるとほんの少し抵抗してみる。だが、胸に抱き入れると大人しく縋り付いて来た。
「名前を…付けてやらねばなりませんぞ、政宗どの」
「分かってる」
一緒になってゲージの前にしゃがみ込んだ幸村も、手を伸ばして子猫の喉辺りを指先で掻いてやった。
「トラジローの妹になるのでござるから…」
「サクラ、とか?」
悪ふざけな自分の思いつきに政宗は鼻で笑った。
「それはあんまりでござる」
「だよな」
「白と茶の毛並みでござる」
「…だから?」
「んー、…キャラメルソースをかけた大福餅みたいでござる」
「………」また食い物の事か、と政宗は隣の友人をまじまじと見つめた。
「あ、いや。某が今食べたいと思ってる訳ではなく、…その…っ」
「や、いい。メルにしよう」
「…おお!キャラメルのメルでござるな!可愛い名前でござる!!」
「でけえ声出すな。ビビってんだろうが…」
「あ…す、すまぬでござる…。でも、ホントに良い名だと存ずる…」
「まあな…」
メルは、政宗の両腕の中で手足を泳がせた。
広い床に降りて駆け回りたいのだろう。だが未だ駄目だ。車に挽かれてここにやって来たのなら、もう表へは滅多な事では出せない。子猫自身に車に対する恐怖心が出来て、その形を見ただけで何処かへすっ飛んで行きかねなかった。
微かな声で鳴いて不服を訴えて来る子猫、それを抱き寄せ首筋に口元を埋めた。清潔に世話されている子猫は、シャンプーの甘い香りがした。
「…何か、あったのでござるか、政宗どの?」
「………」
俯いた横顔が床を凝っと見つめる。
瞬間、言おうかと思いかけ止めた。この大味な友人に、自分でも図り難い思いを理解出来るとも思えなかったのだ。
「何も…今週末にちゃんと引き取りに来る」

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