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―記念文倉庫―


昼過ぎからポツポツやっていた雨は、夕方から本降りとなり日付が変わっても止む気配を見せなかった。
学校からの帰途に就いて駅から出た時も、うんざりするくらいの土砂降りだった。
ビニール傘を広げて改札口から一歩を踏み出す。その足も見る間に水を含んで重くなった。風は余りないが跳ね散る雫が、傘を差しているにも拘らず体中を濡らす。
深夜の街中は寝静まって動くものの影すらない。そこを満たす水滴と雨音が世界を飽和状態にしていた。
道を急ぎながらも政宗は、その世界を全身で感じていた。
全体を薄い紗のように包み込む繊細な響き。己の頭上、傘の上でボツボツ大きな音を立てる雨滴。それに遠くと近くで異なったリズムを刻んで不定期に滴るものたち。
皆、雨の音だ。
その中に異音が混じったのは、民家が密集したT字路に差し掛かった時だった。そこの角から誰かが駆けて来る。そう思った次の瞬間にはぬっと大きな人影が目の前に現れ、雨滴を避けて俯いたままこちらに突進して来た。

ドン!

衝撃が走って政宗は傘を放り投げて地べたにすっ転んだ。
タックルでもかまされたみたいだ。しかも相手は平然と立っている。
「前見て歩きやがれ」
そう怒鳴った男の顔は、政宗からは街灯のシルエットになって見えない。
辛うじて判別出来る髪も肩も、上着からGパンから、何もかもびしょぬれの男は、まるでつい今しがたまで川で一泳ぎして来たみたいだった。
どっちが前見てねえんだよ、と思いつつ立ち上がった政宗は打ち付ける雨の中、片目を細めた。
男が黒いジャケットの中に後生大事そうに抱えているもの。
「―――猫?」
そう言う青年の呟きに、男はより一層庇うようにその子猫を抱き締めた。そして、2人の間の沈黙を絶え間ない雨音だけが埋めて行く。


「今何時だと思っておる…年寄りを叩き起こしおって。まっこと礼儀知らずな若造よ…」
忙しく動き回りながら、顎髭を生やした大男が絶え間のない愚痴を零す。話が長いのと説教が大好きだと言う所を除けば腕の良い獣医なのだが、と政宗はうんざりして来る。
「詫びなら今度飯作ってやるからとっとと仕事しろよ、おっさん」
「やっておるだろう、お主の目は節穴か」
「片方はな」
政宗は処置室を離れた。
そうして、借りたタオルで頭を拭きながら勝手知ったる診療所を歩き回る。
保冷剤の詰まった冷蔵庫から牛乳を取り出して直に口を付けて呷った。尻餅を突いた時に擦りむいた掌の傷に、適当な所にあった消毒液を付けてふーふー息を吹きかけ絆創膏を貼った。スニーカーの中まで水でぐっしょり濡れて使い物にならなくなった靴下を、包帯で溢れた洗濯機の中に放り込んだ。
それから、木製の廊下をぺたぺた歩く。
ようやく診察台の前に戻って来た政宗は「おっさん」と呼んだ医師の手元を覗き込んだ。
「どうなんだ、助かりそうか?武田のおっさん」
白衣の大男がギロリ、と睨みつけて来た。
「手術が必要だ」と言った大男、武田はぐったりとした子猫の腹を指先でそっとなぞった。息が浅く、ピクリとも反応しない。
「手術?」
「多分、車に挽かれたのであろう、内蔵が破裂しておる」
「……ちょっと待ってな」
政宗は一度診察室から出て行くと待合室に顔を出した。
そこには先程、政宗に体当たりをかまして来た猫の飼い主と見られる男が、濡れた服のままベンチに腰掛けていた。彼にもタオルを渡したのは政宗だ。
「なあ、あんた」と言う政宗の声に男が顔を上げた。
「―――…」
「手術が必要だってよ。良いな?」
「………」
男の目に戸惑いが流れた。
その淀みが、政宗の神経を逆撫でする。
「やらなくて良いんだな?じゃあ、殺処分だ」
「待て」
鋭い声が飛び、男は乱れた前髪を掻き上げた。その左手の中指に光るシルバーリングと目立たない小さなシルバーネックレスを見れば、男がどんな職業で、どの程度の稼ぎがあるか知れる。その上、左頬の切り傷だ―――妙な取り合わせだと政宗は思った。
「手術はして欲しい、金も払う。だが、あの猫は俺のペットじゃないんだ」
「…だから?」
「引き取り手がいない」
「ここは動物病院だ、投げ捨て寺じゃねえ」
「引き取り手を…探す」
一度言ってから、男は頭を抱えて唸った。記憶の中にあるどの顔を思い出しても適当な人物が見つからない、そう言った様子だ。あいつも駄目、こいつはアレルギー、そいつは虐待しそう…そんな事をぶつくさ零す男を前に、政宗は片眉をピクリと上げた。
「手前が金払え、俺が面倒見る」
言い捨て、さっさと診察室へ引き返してしまった。
男は何かを言い掛け、伸ばした手を所在なさげに引っ込めた。
戻って来てみれば、武田は待っていろと言ったのに既に手術の準備を終えて子猫を抱きかかえていた。一刻の猶予もないのだろう。
「俺で良ければ手伝ってやる」と政宗は言った。
「来い」と言って武田は、診察室の更に奥の扉を肩で押し開いた。


夜が明け、手術を終えて待合室に武田と共に出て来た時、そこに男の姿はなかった。ただ、男が腰掛けていたベンチの上に丁寧に折り畳まれたタオルと、剥き出しの現金(10万だ!)と診療所のアンケート用紙の裏に走り書きされたメモが残されていた。
「んだ、あのヤロウ…」
と呟いて、政宗はメモを拾い上げた。
そこにはこう書いてあった。
『残金は次来た時に支払う。片倉小十郎』
連絡先など一切ない、失礼な奴だと政宗は武田と散々言い合った。

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