―記念文倉庫― 10 着物を整えて表の一間に出るとそこに若鶴翁の姿はなかった。 さては気を利かせて庵から出て行ったか、と思って濡れ縁から庭に出る。夕なずむ日暮れの赤光に鬱蒼とした木々が早くも漆黒の影を落としていた。生い蔓延る低木の中に姿は見えぬが水の流れる音がして、何となくそちらの方へ歩いて行くと山中から戻って来たらしい翁の姿が見えた。 向こうもこちらを見つけて、足下の蔦を杖で掻き退けつつ歩み寄って来た。 「ずいぶん満足したと見える」そんなあから様な言葉についむっとしてしまうが、小十郎は腹を括って一つ頭を下げた。 「何だい?」 「礼を言う」 「何の事さね」 空っとぼけた翁は最後までとぼけ切るつもりだろう。とにかく礼は言ったのだ。それ以上蒸し返すのは止めた。 「あの子たちと初めて知り合った時の話をしてやろうか」 籠を背負った若鶴がゆっくりと庵に戻りつつ、独り言のように呟いた。 「奥州街道をその時あたしは赤湯に向かって歩いていた。川端に子供が2人、座り込んでいるのを見つけたのはその時さ。何をしているのかと見ていたら包みの中の書物を川に投げ捨てているじゃないか。勿体ない事をするんじゃないと言って近付いて行ったら、藤次郎の方がこう言ったさ。…全部頭の中に入ってるからこれは無用の長物だ、とね。そりゃ、あんたにしてみればもう無用かも知れないが別の者にとってはそうじゃないだろう。そしたら、あの子は初めてその事に思い当たったらしく、書を投げ捨てるのを止めたよ」 それで―――と小十郎は納得した。 政宗に兵学や儒学を教えていた城付きの教育係が嘆いていたのを思い出した。教わっていた筈の政宗は「あんなものは何の役にも立たない」と教育係に言い放ったそうだ。男は失意の内に米沢城を出て行った。 その他にも伊達の嫡男として政宗には様々な師が付いたが、どれも長続きはしなかった。 どの教本も一読で暗記し、それ以上の事を教えられる者がいなかったからだ。解釈や解説など、それこそ政宗にとっては蛇足でしかなかった。 「あの子に必要だったのは論ではなく自ら体現する事、あるいは何故と言う問いとそれに対する幾つもの仮説だった」 黄昏れた空を数羽の雁が渡って行って、直ぐに見えなくなった。 「何時も自分に問うていた、何故、どうして」 それは小十郎もしょっちゅう問われた事だ。 何故、どうして。 ロクな返答をして来なかった気がする。 伊達家のため、嫡男としての当然の心構え、主とその従僕としての勤め。 「結局は答えなんてものは自分の中から見つけ出さなきゃならないって気付いたようだけどね―――。籠の中の鳥は何を夢見ると思う?」 不意に振り向けられた問いに、小十郎はほんの少し狼狽した。何とか考えをまとめて「自由に空を飛ぶ事を」と応えた。 「あの子は鳥になる事自体を否定したよ。自分が自分である為に鳥には決してならぬ、と」 ―――籠の鳥は心ない交わりもする。 そうも言っていた筈だ。だがそれは裏を返せば、自分らしくある時は鳥でなくても自由でいられ、鳥となっては籠に捕らえられ心ない交わりをしなければならない、と言う意味だったろうか。 「…それが又何でよりによってあんたみたいな朴念仁を選んだのかねえ」 あたしにゃとうてい理解できないよ、と続けて若鶴はぼやいた。 思わず足を止めた小十郎が、丸まった小さな背に対して文句の一つでも言い放とうとした時、 「おや、藤次郎」と声が上がった。 見やると、庵の濡れ縁へと続く獣道の半ばに、元の質素な小袖小袴を身に付けた政宗が立っていた。小十郎の姿を見つけると少しだけ照れたように目を反らしたが、直ぐに何時ものポーカーフェイスに戻って歩み寄って来る。 若鶴の背負った籠の中を覗くと、蕨や蕗の薹などが摘まれているのが見えた。 「夕餉に炊き込み飯でも作ってやろうと思ってね。腹が減ったろう?」 「ああ、腹が減った」 何の衒いもなく返す若い声に、若鶴は揚々として笑った。 小十郎も又笑うしかなかった。 赤湯の山里の夜はこうして更けて行った。 20110214 Special thanks! [*前へ] [戻る] |