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―記念文倉庫―
3(※上臈)
翌朝、温泉町へ買い出しに出ると言う若鶴に政宗と成実も徒歩で着いて行った。
何時もの客人らは大概午過ぎから夜に掛けてちらほらと若鶴を尋ねて来るので、山中の庵は開けっ放しのままだ。
町へ降りた若鶴は背負った籠に味噌や米を買って次々と放り込んだ。焚き付けの炭や、欠けた茶碗の代わりの新しいものもそれに加わる。政宗や成実はその籠を背負う事を何度も申し出ているが、若鶴がそれに頷いた試しは一度もない。
「これがあたしの勤めなのさ」
そう言って笑うだけだ。
最後に立ち寄った宿屋で安酒を買った。
若鶴はそこの主人と二、三言葉を交わした後、2人を手招いた。
「女を抱いた事は?」
ぶっ
しれっとして尋ねられた台詞に成実が吹いた。一方、政宗は何時もの笑顔を浮かべる若鶴を何も聞いていなかったかのような無表情で眺める。
「ここの上臈は身分卑しからぬ出自の女が多くてね、扱いが難しいが風流を解するとあって下級徒士には人気の宿なんだ。けど、中には困った性分の女もいる。やり方次第じゃ追ン出されるかも知れないが、一つ試してみるかい?」
相変わらずにこやかに話す若鶴に含む所はなさそうだ。
どぎまぎとして政宗の横顔を盗み見る成実には全く経験はない。当然、常に行動を共にしている政宗だって同じ筈だ。
「幾らだ」
そう政宗が平然と返すのに、成実は固まった。
声を出して笑った若鶴は横目で宿の主人を睨みつけてやった。
「厄介者を押し付けようとしてるんだ、勿論金子なんぞ取りはしないよ」
これには主人も困った顔をしたが、言い返す言葉はないようだ。
2人は奥から出て来た小さな老婆に導かれて宿の奥へと入った。

枯山水の庭や築山を回り込む形で奥の間はあった。
政宗は途中で成実と分かれ、大きな樫の樹の傍らにひっそりと佇む離れまで通された。先に廂間の板戸を潜った老婆がその縁に跪いて無言の内に少年を中へ導き入れる。
その爪先がかさりと乾いたものを踏んだ。
指先で拾い上げ、美しい手になる書にざっと目を通す。
せっかく美しいのにおかしな位置から書き始め、途中で飽きて放った。そうして床に散らばった紙片を薄暗い屋内に透かし見る。和歌の切れ端、古典の欠片―――そんな言葉が政宗の頭を過った。
背後で控えていた老婆は、政宗がその有様に見とれている間に音も立てず下がった。政宗の左目は、書院造りの床の間に述べた文机を肘掛けにして凭れ掛かる女の後ろ姿に吸い込まれている。
女の傍らに茶釜がしゅんしゅんと音を立てて湯を沸かしていた。それさえも気紛れに火を熾し、ふつと忘れ去られた印象だ。
政宗は女の傍らに立つ前から、乾きかけた筆を持つ女の手が左だと言う事に気付いていた。
「思い出せぬのだ」と女は言った。
「岩代から始まる歌、若くして首を落とされた皇子」
振り向きもせず呟く女から少し離れて、政宗は湯気を立てる茶釜の傍らに腰を下ろした。
「岩代の浜松が枝を引き結び、ま幸くあらばまた帰り見む」
ふと女が顔を上げた。
振り向いて、政宗の姿を初めて見る。そこに人がいたのかと今更ながらに驚き怪しむ体だ。己の立場が分かっていない者の無防備な表情。
細面に少し垂れた目尻と、それとは逆にきりりと上がった柳眉は女の気の強さを現しているかのようだ。それがはんなりと笑むと途端に優し気な容貌に変わる。
「そう、それ」
政宗は表情を変えずにそれを見た。
二十歳前と言った所の、華々しさはないが胡面に映える夜明けのような清々しさは、女のともすれば夕暮れと見間違う儚さと同居している。ただそこにあるのは達観した者の微笑みだ。
その口が動いて更に言う。
「五月ばかりなどに山里に歩く、いとをかし」
今頃の野を行けば、すっかり緩んだ雪解けの清水が下生えの草の中に隠れてちょろちょろ流れている、その様が赴き深い、と女は言う。
「草葉も水も、いと青く見えわたりたるに、上はつれなくて草生いしげりたるを、長々とたたざまにいけば、下は得ならざりける水の深くはあらねど、人などの歩むにはしりあがりたる、いとをかし」と。
政宗は、面白そうに言の葉を紡ぐ女から視線を反らした。その口が仄かに開く。
「左右にある垣にある、ものの枝などの車の屋形などにさし入るを、急ぎとらへて折らむとするほどに、ふと過ぎてはづれたるこそ、いと口惜しけれ。蓬の車におしひしがれたりけるが、輪の廻りたるに近ううちかかりたるも、をかし」
昏い声でそう言って、口を閉ざした政宗を見ていた女の口元から笑みが引いた。それに追い打ちを掛けるように横顔を向けた少年は言った。
「外に出たいか」
パチン
音を立てて硯箱に筆が置かれた。
女は応えず文机から身を起こし、打掛の裾を捌きながら茶釜に躙り寄った。中の湯が半分程に減っているのを見て取って、左手に置かれていた水差しから水を注ぎ足す。
チンチンと茶釜の金属が鳴る。
「これを飲んだら、帰れ」
ニベもない言い草だった。
これで上臈とは宿の主人も手を焼く事だろう。
女はもうこの世にはいないかのようだった。幽玄の狭間に逃げ隠れして真実の醜い顔を見ようともしない。
上臈とはそんなにも辛い生き様であったか、などと政宗は思う。
家を失った武家の子女などが身を窶すそれは、芸事や和歌文筆、将棋・囲碁などで客人を持て成し、そのついでとばかりに男に抱かれたりもする。
政宗は未だ若かったし男でもあったので、そんな上臈の気持ちは良く分からなかった。
であれば、と言う感じに、女が優雅な所作で入れて差し出して来た茶を受け取るなり床に零して見せた。
「―――…」
女はそれを感情の籠らない、乾いた目で追う。そこに大層重要な意味でも秘められているかのように。
「私には許嫁がいた」
淡々と呟いた女が政宗をひたと見つめた。
「14の時分の事だ。幼い頃より互いを分身のように思っておった。厩舎で一晩明かす事があって、あの方は戦へ出て行った。そして帰って来なんだ」
「よくある話だ」
「…そう、よくある話」静かな眼差しに挑むような色が生まれた。
「よくある話だ、家がお取り潰しになって親類縁者が離散した所の姫が、世を儚んで首を括るなど―――。だが私は人に哀れと言われつつ逝くつもりはない。憎め、宿の主人も客もお前も、私を憎め。いずれ、もの言う玩具など興醒めであろう」
不意に政宗が笑った。
極僅かな変化だったが、それまでの冷たさを払拭してしまう程には女の目に映った。
「そうか…俺に似てるな、お前」
「…何と?」
「家の者に疎まれ蔑まれながら愚かな行為を繰り返している。勝手にしろ、俺は俺だ。俺を詰る声の聞こえる場所、それが俺の居場所だ。だが、それがどうした。俺はどうせ家を継ぐ、誰が何と言おうと。だから改めるつもりはない」
「随分…権勢欲の激しい事だ」
「違う、籠の鳥だ」
成る程、そう言う考え方もあるか、と女は黙り込んだ。女は武家の出であったから家督争いの醜さは良く知っている。
「俺はお前を買った」と続けて言った時には、政宗の口元から仄かな笑みは消えていた。
「その俺が外に出たいんだ、宿の主も文句は言わない」
籠の鳥はむしろ、女の方だった。家に縛られているとは言え政宗はその行動に制限を設けられている訳ではない。それに対して女はこの離れから勝手に出る事は許されないのだから。
いや、程度の差こそあれ、どちらも籠の鳥―――そんな思いがふと過った。
「良い」
女は囁くようにそう言った。
打掛の裾を引き摺りつつ政宗が置いた湯飲みを左手で払い退け、するすると膝行しながら近付いて来た。
「ここで良い」
言いながら、女の左手が伸びて来てその指先が政宗の着物の袷、襟元に軽く引っ掛かってするりと滑った。
「互いの傷を舐め合うなら、この籠の中が良い」
女の顔が近付いて来て、少年の表情を伺いながら唇が触れ合った。
そうしながら女の指先は襟の流れを上から下に、下から上へと行ったり来たりを繰り返す。体を離したまま、甘い吐息を吹き掛けつつ女は少年の唇を軽く啄んだ。
「のう、そうであろう?」
ぐい、と女の左手が着物の内へ差し込まれた。そのまま強引に袷を肌ける。唇を割って、ぬるりとした舌が歯列をなぞる。その時になって初めて少年が戸惑い勝ちに応じて来た。三度に一度、唇を吸い返し、弄る女の舌におずおずと舌先を這わせる。
少年は初めてなのだ、と直ぐに分かった。
その事が、女なら誰でも持っている母性本能を刺激する。
女は政宗には告げなかったが、たった一度情を交わした男の嬰児を身籠っていた。それを敗戦の最中、取り潰された家中のごたごたのどさくさに紛れて堕胎した。
望んだ訳ではなかった。
女はその時14歳だった。
思いも寄らず、着物の袖を乱して少年の体を掻き抱いていた。

「良くしてやろう…籠の鳥のそなたが悦ぶように…」


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