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―記念文倉庫―

赤湯に到着した政宗たちは、勝手知ったる宿場町を駆け抜け、外れにある寂れた庵に馬を寄せた。
柴垣の門を馬を下りて潜り抜け、庭とも野とも付かぬ道を行く。
庵は、その野趣溢れる向きとは打って変わって常時客たちの気配に湧いていた。今も喧嘩腰の論争を一席ぶつ声が聞こえて来る。
歩きながらそれに耳を傾けて見れば、武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いを是とするか非とするか、と言ったような事らしい。政宗は傍らの従兄弟と顔を見合わせた。成実は澄まし顔で肩を竦めて見せ、政宗は口の端を歪めて苦笑した。
開け放たれた濡れ縁に集った面々が、馬を引き連れてやって来た2人を見つけた。
「良う来た、若いの」と声を張り上げたのは、流浪人と見られる髭もじゃの偉丈夫だ。黒い毛皮の陣羽織を羽織っているので全身これ熊のようだった。
「その辺に馬を繋いで早う上がって来い」
軽快に言って飾り気のない笑顔を向けるのは、儒学者の成りをした瓜実顔の若い男だった。
その他にも皆にこにこと嬉しそうに政宗たちに笑顔を向けた。
来る度に面子が違い、政宗も初めて見る顔が少なくなかった。だが、変わらず一番奥の床の間に穏やかな佇まいを見せている庵の主は健在だった。
「この辺の草を皆食ってしまうぞ」そう言いながら政宗は手近な柿の木に自分の馬の手綱を結んだ。
「荒れ放題の庭がすっきりして清々すらあ、なあ若鶴どの」
裕福な商人の風体をした四十絡みの男がぞんざいに庵の主をそう呼んだ。
「見通しが良くなるのは頂けないねえ」と、若鶴は笑ったような形の皺に埋もれた目を更に細くして言った。
「隠されている事に意味があるんだ、真実なんてものはそう言う事さ」
政宗はこの老人の語る所を一つも聞き漏らすまいと人知れずこっそり耳をそばだてた。何でもない軽口や日常のやり取りの中に、彼の言葉は宝探しでもするような小さな煌めきや驚きを齎してくれる。それが単純に楽しかった。
「そう言えば"秘すれば華"、などと尤もらしく説いた男がいたなあ」
若鶴の言葉を受けて、大店の隠居と言った身なりの良い初老の男が呟いた。
「藤次郎どの、能で直面が嫌われるのは何故だか知っとるかね?」と重ねてその男が問う。
「いや」
首を振りつつ応えて、政宗は濡れ縁に腰を掛けた。
「本物の情は見る者の内にあってこそ鮮烈なのだよ。人から押し付けられた喜びも怒りも哀しさも、それが演舞であるなら尚更ただの作り物に過ぎない。能の面は全ての感情の中庸を維持しているからこそ、見る者はそこに己の感情を映し見る」
「舞い手は見物客の鏡か」
そう政宗が返せば隠居はうんうんと頷いた。
「だからこそ、能は己を無にしなければ演じられぬ」
「また富山の隠居の能楽論が始まったぜ。今は兵術の技巧を話してたろうが。歌舞謡曲なんざ後にしてくれ」
隠居の言葉を髭の流浪人が遮った。そうだった、と言って富山の隠居は笑った。
「兵法より能楽論より、藤五郎は団子の方が良いようだな」
儒学者の青年に可笑しくて堪らぬ、と言った風に指摘されて、成実は高杯に乗っていた塩豆餅に出していた手を止めた。
「だって腹減ったんだよ、馬駆けて来て」言って口を尖らせる。
「なら、馬も汗をかいてるだろう」と奥からおっとりと言い差して来たのは若鶴だ。
「庵の裏手に枯れ草を集めてあるから、それで拭いておやり。その間に汁物を用意してやろう」
「はーい」
大人しく従う成実ににっこり微笑んでやると、老人はよっこらしょと大義そうに立ち上がった。
客人らは庵の主人が席を外しても思い思いの話題に華を咲かせて途切れなくお喋りを交わした。
政宗も庭に降りて、黒く煤けた庵端の脇を走って回り込んで行った従兄弟の後を追う。

不思議な庵だった。
皆本名を名乗らず「富山の隠居」だの「嶺南翁」だの、はたまた「吉野大夫」などと言う洒脱な徒名で呼び合い、それぞれの知識を披露し合っている。
今少し時代を下って、もっと若い者たちが集えば某かの私塾とでも名乗れるのだろうが、これではただの有閑倶楽部止まりだ。四書五経についての論釈を講ずる訳でもなく、戦国の世を憂えて世直しにいきり立つでも無し、ただのんべんだらりと語らうだけなのだから。
そんな庵に入り浸る政宗たちこそを、若鶴本人は笑った。
「酔狂な若者だねえ」と言って。
そんな若鶴に政宗は生真面目な様子でこう返した、
「文字に書かれた知識を詰め込まれると、ここへ捨てに来る」
そうすると、更に大きく声を立てて笑われた。
別段、不快ではなかった。

庵の裏手、古井戸の傍らに枯れ草は山積みにしてあった。政宗と成実は着物が汚れるのも構わずそれを両手に掻き集める。
古井戸の前には裏の勝手口があり、汁物を用意すると言っていた若鶴が桶を片手に出て来た所だ。
「匕首があるなら蹄の手入れもしておやり。馬は自分じゃ出来ないんだからね」
重ねてそう言われた成実が変に胸を張って応えた。
「いつもちゃんとやってるさ!藁束で体を擦ってやると、柳水はとても喜ぶんだ」
「そうかい、そいつは良かった。馬もお前を頼りにしてるんだよ」
「俺も柳水の事大好きだよ!」
衒いのない笑顔を向けられて若鶴もにっこり微笑んだ。
その目が、成実の隣に立つ政宗にふと向けられる。従兄弟の笑顔を見知らぬ者にでも出食わしたように見つめる、その呆然とした眼差し。
「後でひとさし、舞うかい?」
その問いが自分に向けられたものだと気付くのに一拍、二拍程間があった。ようやく我に返った政宗は「ああ」と上の空に応える。

庭に生えていた菜っ葉と、裏山で若鶴が採って来た筍を煮付けた汁物を皆で平らげた。その後、夜の帳が降りる中に三々五々客人らは引き揚げて行った。残ったのは政宗と成実だけだ。
その政宗に若鶴は重厚な衣装を纏わせた。
行灯の明かりに照らされ浮かび上がる古風な衣装には、その分厚さに負けぬ程の力強い模様がきめ細やかに織り込まれている。その縫箔の衣に袖を通し、特徴のある横幅の広がった大口袴を履き、さらに都の貴族を思わせる長絹をふわりと被せる。その襟もしっかりとは折らずに多少着崩れた感じにゆったりと合わせて、腰帯を腹の下辺りでしっかりと括った。
その様子を、成実は好奇心に溢れた瞳でわくわくと言った風に見つめていた。
着付けの衣擦れの音も心地よく、異空間の入り口に立った政宗は面の代わりに白いドーランをその顔に塗りたくられ、最後に目尻と下唇に一捌けの朱を施され別人へと変わる。

『紛々たる世事 亂れて麻の如し
 舊恨新愁 只自ら嗟く
 春夢醒め來って 人見えず
 暮憺雨は酒ぐ 紫荊の花』

庵の何処からか漆塗りの七弦琴を持ち出して来た若鶴が、自ら弦を爪弾きながら独特の唄い回しで古めかしい詩を詠った。
政宗はそれに合わせ興に任せて無造作に手足を動かした。
無造作であっても体の何処にも力が入っていない。まるで重力を感じさせず雲の上を踏んでいるような、天の羽衣で宙を舞っているように、さす。
それは強靭な肉体の成せる技であった。
立ち、歩き、座る、それだけの動きに腹筋と背筋で上体のぶれを抑え、かつ刹那も淀まぬ滑らかな流線を描く。それは舞の基本であり、後世太平の世である江戸時代に剣の道を極めた者が行き着くとされた境地に通じていた。
上身を腰に乗せ、下肢を腰で吊る、丹田に気を籠め気を練り全身に行き渡らせる。全ての礎は腰の落ち着きが決める。
それを、15の若さで政宗は事も無げにやって退ける。

終わった、とも思えぬ間に曲は終わり、政宗は普段の通り立ち尽くした。
「心ここにあらず、と言った様子だね」
その沈黙の静寂に若鶴の密やかな声がするりと忍び入る。
「そりゃそうだよ、家の跡継ぎに藤次郎じゃなくて弟の方が良いって騒ぐ連中が―――」
「藤五」と政宗は成実の言葉を遮った。
彼らもここでは本名を隠し、別称である藤次郎・藤五郎と名乗っていた。その名もあり、又2人の容姿が似ていた事から彼らは兄弟と見られていた。
その2人が揃って黙り込む中、若鶴は笑みを深くする。
「それもあるのだろうけど他に何かありそうだ…。まあ、若いと言うのはそう言うものだろうね」
笑い含みに言われた台詞に、政宗は凛々しい少女のような面を向けた。
「俺の中の惑いが見えるか、翁?」
「さあ、どうだろう」
「俺のこの苛立ちは何だ」
政宗のそれは若鶴に問うているようでいて、その実自分自身に向けられたものだった。
「俺は何を求める…」
「目を閉じてごらん」
一つ、二つ、弦を爪弾きながら若鶴は言った。
哀切に響く弦は行く春の後ろ姿を思わせて、鬱蒼とした庭へと吸い込まれて、消えた。政宗は閉じた唯一の左目をそちらへと向ける。
孤独の内にあって未だひんやりとした風は、山中をひっそりと抜けてむしろ清々しくさえあった。
闇と無音、その中に思い起こされる酷く懐かしいような眼差しがあった。
「手を伸ばして、伝えたい事を伝えてごらん…」
老翁の言葉に導かれ、政宗の右手が何もない虚空に伸ばされた。そして声もなく微かに唇が震える、戸惑うように。
「!まさ、藤次郎?!」
唐突にしゃがみ込んだ政宗の側へ、慌てて成実がにじり寄った。
己の体を抱いて見開いた左の瞳で床を凝視する政宗が、その従兄弟の温かい手をそっと押しやった。
「何でもない…目を閉じてたから体が揺れただけだ」
「―――そう…?」
何事もなかったように再び立ち上がった政宗は続けて三曲、若鶴に請うて舞った。
瞼の裏の眼差しは自分の気付かぬ間も常に自分を見守る目だ。その持ち主が政宗が伸ばした手の先で思いも寄らぬ行動を起こしていた。それに動揺した政宗は思わず後ずさろうとして何もない床に躓いたのだ。
―――思いも寄らぬ?
違う、驚いたのはそれを望んでいた自分に気付いたからだ。


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